『SS』 あだ名

 今日も今日とて通常営業はSOS団なのであるが、通常営業というのは長門が本を読んで朝比奈さんがお茶を淹れてハルヒがネットをしているのを見ながら古泉とゲームをするという事である。
 これが毎日繰り返されているだけの活動なのだが、これがまた心地良かったりもするのだからいかがなものなのだろうね? そうして放課後が過ぎていく、それがいいんだと思っていたのだが。
 本日は些かながら趣旨が違っていたようだ、その発信源はなんと団長様ではなく無口な元文芸部員さんなのである。長門は急に本を閉じ、立ち上がったかと思うと静かに俺と古泉がゲームをしている長机までやってきた。
「提案がある」
 まったくもって何事だろうか、長門からの提案など滅多に無いというかありえないだろうな。朝比奈さんはお茶を淹れる手を止め、ハルヒもパソコン越しにこちらを覗いている。
「どうしました長門さん? その提案とは僕ら二人に対してでしょうか、それとも―――」
 長門は数ミリ首を動かして視線を俺にロックする。どうやら目的は俺にあるらしい、それが何故なのかを今から説明してくれるのだろう。そして全員が聞き耳を立てている中で、長門は静かに口を開いたのだった。
「あなたは、」
 その口調はいつもと同じく平坦で淡々としていたのだが。
「現在、キョン、という愛称で呼称されている」
 いきなり何を、とも思うが、ああそうだ。俺としては不本意ながらも、このあだ名が定着して長い事になる。その間、黙っていた訳じゃないが俺の意思から遥か離れたところで事態は常に推移していったのだ。だからこそまたも長門にそこを突っ込まれるとは思わなかった。正直ショックである。
 だが奈落の底にいる俺のガラスのハートなど一切お構いなしで長門は話を続ける。
「あなたの呼称は我々にとっては共通認識であり、それはあなたのパーソナルを形成する重要な要素として現在定着されている」
 難しく言ってるが、要するに俺のあだ名がお前らにとっての俺そのものだと言いたい訳か? するとハルヒが、
「そうよね、キョンキョン以外の何者でもないわ」 
 などと深々と頷くもんだから腹が立つ。おまけに古泉や朝比奈さんまでも笑顔で同意の意を示しているのだから泣きそうにもなってくる。これは長門発の新たなイジメなのだろうか? 俺は長門には申し訳無いが自分の名誉の為にも抗議の声を上げた。
「なあ、お前は何で今更そんな事を言い出したんだ? 残念な事に俺の本名を呼んでくれる人間は皆無に近くなってきているが、それでも今話題に上げられるような事じゃないと思うぞ」
 俺としてはオブラートに何重にも包んで伝えたつもりだ。いくら長門でも俺の心の涙くらいは汲んでくれるだろう、そう思ったのだがどうやら宇宙人との言語によるコンタクトは失敗に終わったらしい。
「唐突な提案ではない、わたしは昨今この話題をあなたに伝えたいと思っていた」
 とまあ、こいつは俺に一言言いたくてしょうがなかったらしい。一体何なんだ? 俺はそんなに長門に嫌われていたのだろうか。奈落の底にぽっかり開いた落とし穴に落っことされた気分を救ってくれたのは普段話をややこしく進めたがる副団長だった。
「ところで先程から長門さんは提案という言葉を使っていますが、彼に対してどのような提案があるのでしょうか?」
 するとハルヒも追従するように、
「そうよ! あたしもさっきから気になってたの、キョンっていうあだ名を変えたいの? 何か面白いあだ名をつけたいって言うならSOS団全員で考えてもいいわよ!」
 などと騒ぎ出す。勘弁してくれ、今のあだ名さえ気に入って呼ばれてる訳じゃないのにハルヒなんぞに任せたらどんな名前にされるか分かったもんじゃない。何より、これ以上馬鹿にされてたまるか。俺は流石に立ち上がってハルヒを嗜めようとしたのだが、長門が再び話し始めたので動きを止めてしまった。
「そうではない、わたしが提案するのは別の案件」
 そして俺をロックしたままの視線で奇妙な事を言い出した。
「あなたが愛称で呼ばれている中で、わたしはあなたから苗字で呼称されている。わたしはこの点に疑問を覚えた。あなたが愛称で呼称されるように、わたしも愛称で呼称される事を推奨する。わたしの事は『ユキリン』と今後呼んで欲しい」
 はっきり言おう、時間が止まった。凍った空気の中で酸素を求める金魚すくいの金魚のように俺は口を開け閉めしながら、
「あー、つまりは何だ? お前は自分もあだ名で呼ばれたい、とそう言いたいのか?」
 まさかありえないだろうと思ったのに俺には分かる数ミリの頷きで答えてしまった長門に何と言ってやればいいのだろうか? 確かに長門のコミュニケーションを求める心境というのは歓迎すべき出来事のはずなのだが、どうにも変な気分にならざるを得ない。何でよりによって俺のあだ名なんて話題に食いついたのだろうか、この宇宙人さんは?
 というか、長門史上最高であろう期待感を込めた瞳が俺を捉えてしまっているのだ。いかん、これで何か誤魔化そうとしても恐らく長門は納得しないだろう。でも何でユキリン? よほど親しい同性の友人からも言われる事に抵抗を持ちそうなあだ名を堂々と宣言されてもこちらが困るってとこまでは考慮していただけなかったものなのだろうか?
 などと韜晦していても仕方が無い、長門の瞳の中には超新星爆発ばりの光が宿り、それは俺が発するであろう自らの新しい呼称を待ち望んでいるのである。何というか、誕生日でもないのに新しいおもちゃを買ってもらった子供のような輝く純粋な瞳に応えないと、泣いちゃうかもしれないと思えてくるのだからそうしたものか。あの長門が泣く姿なんて想像も出来ないが、それはそれで………って何を考えてるんだ俺は。
「早く」
 そんなに時間は経っていないぞ、長門。だがこの四歳児は待ちきれないのか、俺から視線を外そうともしない。それどころか古泉や朝比奈さんまでもが俺へと視線を集中しているではないか。朝比奈さんは可愛い事を言い出したという慈悲深い目であり、古泉は勘弁してくれという疲れた視線なのだが。これは俺が何か言わなくてはどうしようもないらしい、だが選択を間違えるとどうにかなってしまいそうな予感をひしひしと感じてしまうのだ。
「あー、」
 それでも思い切って口を開こうとした瞬間、
「それって面白そうじゃない?」
 この場で一番空気を読めない女が先に口を開くのだった。誰あろう、この団体の団長であるところの涼宮ハルヒ本人である。俺に向いていた視線が一斉にハルヒの方へと集中する。俺もハルヒの方を見たのだが、あれは完全に何か企んだ目だ。間違い無く余計なことを思いついたに違いない、事態は好転しないことだけはここで確定したのだった。
「決めた! 今日はみんなであだ名を付けて呼び合いましょう!」
 ほらな? つまりは長門だけじゃなくて自分も騒ぎの中にいたいだけなんだよ。これ以上話を大きくしてどうしようってんだ、この自己中心女は? だが、そんなハルヒを必ずと言っていいほど後押しする人材がここにはいるんだよな。
「なるほど、それは面白そうですね。それならば全員共通意識の元で活動も出来るという訳ですか、流石は涼宮さんです」
 そんなに大層なもんじゃないと思うぞ? しかしハルヒは我が意を得たとばかりに、
「でしょ? キョンキョンなんだからそれでいいんだけど、せっかくならみんなもあだ名があったらいいと思ったのよ! ほら、コードネームみたいでカッコいいかもしれないじゃない?!」
 俺のあだ名は本名を隠すためにあるわけじゃないけどな。またも主旨から外れた展開へと行きそうな予感しかしないのだが、最早ハルヒは止まらない。
「じゃあ、キョンキョンで、有希はユキリンだっけ? 古泉くんはどうするの?」
「そうですね、無難なところでは『いっちゃん』などはいかがでしょう?」
 男がちゃん付けなど気持ち悪いだけだと思うのだが。それにあまりに捻りがなさすぎる、ハルヒもあまりお気に召さなかったようだ。
「うーん、なんとなくインパクト不足よねー」
 いや、インパクト勝負じゃないから。思わずそう言いそうになったのだが、
「純一郎はどうでしょう?」
 いや、それは、
「残念ながら字が違いますけど………」
「えー? そうだったんですかー? あたし、てっきり………」
 えーと、朝比奈さん? 俺達の付き合いも結構長いですよね? それでいてまだ古泉の苗字の漢字を間違ってるなんてことは………………見ろ、古泉がさりげなくダメージを受けている。
 ちょっとばかりギクシャクした空気になりそうなところに、
「…………ガチムチ」
 本日二回目の時間が凍結した。二度目の犯人も小柄な元文芸部員の仕業である。
「あ、あー、有希? それはちょっと…………ねえ、古泉くんもほら、せっかくハンサムなキャラなんだから」
 あのハルヒが冷や汗を流しながら必死にフォローに入ろうとしているが、もう副団長は窓から飛び降りそうなので早く止めたほうがいい。
 完全に澱んでしまった空気をかき消そうと、テンションだけは高めたハルヒが、
「そ、そうよ! みくるちゃんはどんなのがいいかしら? ほら、可愛いし、バニーとか着せてキャサリンなんかどうかしら?!」
「ふぇえ〜? あ、あたし、あの格好になるんですかぁ〜?」
 その前にバニーでキャサリンってどんな風俗嬢だよ、というツッコミを未成年の俺がやっていいものかどうか。くだらない葛藤に悩む俺の前で既にハルヒは朝比奈さんを脱がしにかかろうとしているって、待て!
「…………ゴットゥーザ」
「あぁん?! 誰だ、今言ったヤツァ!?」
 ………三回目は確実に時間と心臓が凍った。犯人は小柄な宇宙人プラス中の人である。ごらん、ハルヒが涙目で手を引っ込めたよ。
「え? え〜と〜、あたしは『みくるん』なんて可愛いかなって思うんですけど〜」
「うん、うん、うん! 可愛い! みくるん可愛いですよ!」
 激しく首を縦に振りながら青ざめた顔で肯定するハルヒに、
「えへっ」
 と天使のウィンクで応えた上級生を誰が責められよう。というか、今後は逆らっちゃいけないのだ。いや、今までも逆らってはいけない、踏んではいけない何かが確かにあるのだよ。
 もういいだろうか? これ以上ないほどまでに荒んだ空気に俺の生命力も尽きかけてきた頃、
「あ、あたしはそうね、鶴屋さんも呼んでるから『ハルにゃん』でいいわ! それじゃいいわね、キョン? あたしの事をそう呼びなさい!」
 はあ? なんで俺がそんな恥かしい事をしなくちゃならないんだ? 大体自分だけ可愛いあだ名が既にあるというのが納得いかん。それに、
「わたしが先」
 な? 今まで空気を壊滅的な状態に仕出かしたこいつが順番待ちの行列の先頭なんだ。だから少しは大人しくしてくれないか? などという俺の嘆きなど何処吹く風、
「それじゃ有希の事もユキリンって呼びなさい、いいわね、キョン!」
 ハルヒはもう決定事項のように俺に迫ってくる。しかも長門もさっきまでの勢いそのままで一緒になってるから始末に終えない。何なんだ、この羞恥プレイ?! 俺のあだ名から何でこうなってんだよ!!
「さあ、キョン!」
 まあ確かにあだ名で呼ぶくらいはいいんじゃないか、諦めて二人を呼ぼうとした時だった。いきなりドアが開いたかと思うと、
「おーい、キョーン! お前の嫁さんに届け物だとさー」
 と入ってきたのは空気を読めない谷口である。届け物? いや、それより誰が誰の、
「WAWAWAっ! 何だ、お前ら?!」
 って、いつの間に移動したんだ? 気付けば谷口の目前にハルヒ長門が立っている。しかも何故か若干興奮気味で。
「だ、誰が誰の嫁よ?!」
 ハルヒが掴みかからんばかりの勢いで谷口を責めようとしたのだが、
「届け物はどれ?」
 長門が谷口から荷物を奪い盗らんばかりに迫る。はっきりと戸惑っている谷口が、
「ああ、これだけど長門さんが何で?」
「今あなたは彼の嫁と呼称した。それならば受け取るのはわたし」
「なっ?! 有希ぃっ!? それなら谷口の馬鹿が持ってきてキョンの嫁なんだから、あたしに決まってんじゃない!」
 本日四回目も時間を止めてくれたのは元文芸部員で宇宙人で、ついでに神様もって、もう勘弁してくれ! 
「あ、あー、お取り込み中すまんかった! そんじゃ俺はこれで!」
 おい、逃げるな!! 谷口は面倒事は御免とばかりに脱兎のごとく走り去っていったのだが、その目尻に光るものが浮いていたとかいなかったとか。後に国木田から「なんだってあいつばっかー!」と愚痴られたと愚痴られたのだが、今のこの状況を知った上でそう言えるなら、俺はあいつを尊敬するね。
 何故ならば、
「ねえキョン? あんたの嫁って言ったらあたしに決まってるわよね?!」
「…………あなたの嫁、それはわたし固有の呼称として認識している」
「そんなことないわよ、だって谷口よ?」
「わたしはクラス内ではその呼称で統一されている」
「なんですって?! それならあたしだってみんなが影であたしの事をそう呼んでる事くらい知ってるわよ!」
 …………えーと、なんだろう、これ? 長門のクラスでは長門が、俺のクラスではハルヒ俺の嫁と呼ばれていると。しかも、
「1組と3組と7組でもそうなんだって!」
「2組、4組、8組でのわたしはそう呼ばれている」
 全クラス巻き込んでる?! いや、9組は古泉がいるからか静観のようだが。
「一年生はあたしの事をもう結婚してると思い込んでるもの!」
「三年生から応援していると毎日声をかけられている」
 違った、全学年というか全校挙げてかよ! ていうか、俺の知らないとこで何が巻き起こってるんだ?! 
 うむ、これはヤバイ! 嫌な予感というか、嫌な予感しかしないぞ! 何故だ、あだ名ってそういうもんだったのか?!
「ねえ、キョン!」
 言い争う二人から隠れるように逃げ出そうとしていた俺なのだが流石はハルヒだ、見事に首根っこを掴まれた。そのまま俺は強引に長門ハルヒに挟まれる。
キョンの嫁って言ったらあたしよね?」
キョンの嫁イコールわたし」
 両腕を二人の美少女に抱え込まれ、俺は泣きそうなくらいに嬉しいのやら、選択をどう間違っても世界が滅ぶ事に恐怖するやらで、顔面を蒼白にしていったのであった…………







 どうでもいいのかもしれないが、頼むから誰か俺の本名を呼んでくれないかーっ?!