『SS』 春はあけぼの 前編

 季節は巡り、ほのかに空気が暖かく感じてきたのは昼の長さと比例して冬の終わりを確実に伝えていた。このくらいの暖かさは脳内を麻痺させているようで、俺は睡眠を十分に取っていたにも関わらず未だ夢の世界を旅したい要求に駆られていたのであった。
 そんな中でも学業に従事せねばならないのが学生の身分としては辛いところであり、たとえ義務ではないとはいえサボれば吾が身に返ってくるだけなのである。
 などと思いながら結局睡眠学習に頼らざるを得ない学力低飛行の凡人パイロットは夢さえ見る事もなく授業を終えたこととなったのだった。ちなみに俺の後ろの席の住民も同じく睡眠学習中だったのであるが、何かやり方が違うのだろう成績については遥か高空を飛行中である。格差社会とはかのように形成されてゆくのだよ。
 そして授業が終れば放課後は謎の非公式部活動へと勤しまねばならないのが常なる出来事なのだが、本日は些か様子が違ったようで、
キョン、今日の団の活動は延期ね」
 などと団長閣下が仰せになられたのだから今日は天から雪だるまでも降ってくるのだろうさ。
「どうした? お前がSOS団を休むなんて天地がひっくり返って一周してもありそうにないと思ってたんだが」
「分かってないわね、休みじゃなくて延期よ! え・ん・き!」
 放課後を一回すっぽかしてどこを延期というのか分からんし、延期分をどこで取り返すつもりなのかも怖くて聞けないのだが、
「なんか用事でもあるのか?」
 と、とりあえずは訊いてみる。万が一何か妙な行動に結びつくようならニヤけた超能力者や無口な宇宙人や可憐なる未来人といった連中が右往左往し、俺が何故か結果として苦労する事になるからだ。しかし今日の団長の用件は、
「今日はみくるちゃんと一緒に有希の私服を見繕いに行くのよ。あの子黙ってたらいっつも制服だから季節の変わり目には見に行ってあげないとね」
 などという何ともお優しい話なのであった。まあ確かに長門はほっとけば制服しか着ないだろうし、ハルヒの見立てなら似合うかどうかは保証済みってもんだろう。
「だからそれを有希が着て遊びに行くから延期なの、分かった?」
 なるほど、そういう延期ならこっちも歓迎だ。それにハルヒも女友達だけで遊んだりするのも楽しくなってきたっていうことだろう、朝比奈さんや長門も嫌じゃないだろうしな。
「あんたは部室に行って古泉くんに延期だって伝えておいてね、それじゃあたし行くから!」
 そう言いながらカバンを引っ掴んだハルヒは俺の返事も聞く前に教室を飛び出してしまっていた。ドアの向こうに長門がいたような気がしたところからみても、女性陣はそれなりに楽しみにしていたようだな。
「やれやれ………」
 俺はいつもの口癖を呟くとカバンを持って教室を出た。面倒ではあるが古泉に休みだと言えばあとは家へと帰れるのだ、たまにはゆっくりできるのもいい事さ。それに用事が無くとも部室には顔を出したくなるのは長年の習性になってきてるからかもな。
 そんな訳で一人で部室に赴いた俺はいつもと違いノックもせずに中に入ると古泉の奴を待つことにした。メモでも置いておこうかとも思ったのだが、それもどこか味気無い。つまりは俺はここで放課後を過ごす事をそれなりに楽しんでいたってことだな。
 だがしばらくも待たない内に古泉の奴はやって来た。ハルヒからの伝言を伝えると、
「ああ、それは好都合でした」
 などとぬかすので、どうしたと一応訊いてみれば、
「いえ、このところ涼宮さんの様子も落ち着いていますので溜まっていた報告書でも書き上げようかと思っていたんです」
 とまあ、あまりにも所帯じみたことをいいだしたのである。というか報告書とか書くんだな、『機関』も。
「ええ、僕は涼宮さんのお世話もありましたから結構免除してもらっていたのですが流石に限界もありまして」
 いつもの爽やかスマイルと違い苦笑いそのものの古泉を見ると、こいつもそれなりに苦労しているなあと若干同情もしたくなる。
「わかった、ハルヒには上手い事言っておいてやるから帰ってとっとと片付けてこい」
「助かります、では僕はこれで」
 そそくさと部室を後にする古泉の後姿を見送って、さて俺も帰るかと思いながらたまにはPCでみくるフォルダの再確認でも、とついパソコンに手を伸ばしかけた時だった。
「おーい、ハールニャーン!」
 と、元気に部室に入ってきた人がいる。幸いみくるフォルダを開く前だった俺は冷静にパソコンの電源を落とすと、
「ああ鶴屋さんハルヒなら今日は出かけてます。朝比奈さんから聞いてませんか?」
 満面の笑顔で笑う上級生に挨拶をしたのであった。
「お? そういやみくるが何か言ってた気もしたけど、ここで聞けばいいやって思ってたからねえ」
 意外と大雑把な鶴屋さんはそう言って豪快に笑ったが、もし重要な話だったらどうしたのだろうか?
「んでキョンくんはお留守番ってワケかい?」
 いや、俺も帰るところです。みくるフォルダはまた次回でもいいしな、これはせっかくだから早く帰れっていう事だろうと思い、俺はカバンを手にしたのだが、
「そっか、そんじゃあたしと一緒に帰らないっかい?」
 鶴屋さんからそのような申し出があったのだ。勿論俺に断わりをいれなきゃならないような用事はない、むしろこれだけの美人の上級生と下校を共にするなど身に余る光栄とさえ言えるだろう。
「あっはっは! キョンくんはSOS団みんなで帰ってるからね、たまにはあたしともお付き合いしておくれよ!」
 そう言って力強く肩を叩かれてしまい、俺は苦笑して、
「喜んでお付き合いしますよ、なんだったら毎日でも」
 などと言ってしまった。いかん、調子に乗りすぎたか?
「あ、うん…………そだね、でもキョンくんはやっぱりみんなと一緒の方がいいよ!」
 やはり体よく断わられたな、ちょっと浮かれすぎたか。それでも鶴屋さんとの帰宅は楽しくもあり、その話題の豊富さと話術の巧みさはSOS団で帰る道とは違った楽しさを俺に味合わせてくれた。
 そして鶴屋さんの家に向かう分かれ道。ここまでの時間を忘れてしまうほど話が盛り上がったので、このまま帰るのも惜しい気もするが。
「よかったらウチに寄ってくかい? あたしも話したりないしね!」
 ありがたい申し出ではあるのだが、やはりいきなり男子一人で女性宅へお伺いするのもいかがなものかと躊躇する俺に、
「いいよ、うっとこはお客さんも多いし出入りもそこそこあるからね。それにキョンくんは何回かウチにも来た事あるから顔も分かってるし問題ないにょろよ」
 そういうものだろうか? 俺が言ってるのは意味が違うような気もするが。
「それとも、キョンくんはあたしと二人だと何かしちゃったりするのかな〜?」
 いえいえ、そんなつもりは毛頭ありませんけど何と言っても鶴屋家なのだ。はっきり言って今現在これだけ気軽に話をしているだけでもとんでもない話かもしれないな。
 そんな旧家のお嬢様であるところの鶴屋さんに誘われたとはいえ、お邪魔するのもと思っていたのだが何かするって訳でもないし話も続きが気になったので、
「それじゃちょっと寄らせてもらいます、さっきの話も気になりますし」
「そっか! そんじゃ帰ろ!」
 という事で俺達は鶴屋さんの家へと向かったのであった。いつもと違う帰り道で、いつもと違う行動なのだからたまにはいいんだろう。俺は呑気にそう思っていた。



「そんじゃお茶でも持ってくるからくつろいでおいておくれよ!」
 などと言われて通されているのは鶴屋家の離れなのだが、くつろげと言われてもそうはいかない重厚さである。やはり俺達とは住む世界が違うと実感させられるのは離れであるはずのこの部屋が俺の部屋より一回り以上でかいところからでも分かろうかというものだ。
 そんな中で、柄にもなく正座なんぞしてしまったりで鶴屋さんを待っていると、
「やあやあ、お待たせっ!」
 元気にお盆を手にした先輩は目の前にそれを置くと、
「お茶請けは煎餅でいいかな? 貰いもんで悪いけどさ」
 と言いながらテキパキと用意を済ませている。鶴屋さんの家で貰い物ならば俺が口にする機会はあまり無さそうな高級品に違いない、それだけでも来た甲斐もあるってもんだろう。
「ありがとうございます、鶴屋さんが自分で用意するなんて思ってませんでしたよ」
 それなら俺も何か手伝えばよかったかもしれない。単に待つのも悪いし、鶴屋家ならお手伝いさんでもいるかと思っていたからな。
「いいっていいって! あたしが招いたお客さんだからね、ちゃんとお世話するのが礼儀ってもんさっ」
 手際良く急須からお茶を注ぎながら鼻歌でも歌いそうな感じで鶴屋さんは俺の目の前に湯飲みと煎餅を差し出すと、
「はい、ゆっくりしてってね」
 そう言って自分もお茶を煎れていた。まあありがたく頂く事として一口飲むとこれが俺なんかでも判るほど美味い。流石は鶴屋家、お茶のレベルも高いとみた。
「そんでさっきの続きなんだけどさー」
 ああそうだった。帰り道から続いていた話は相変わらず盛り上がり、煎餅も美味かった。俺達は時間も忘れて話し込んだ。
 そして気付けば、
「あちゃー、どうしよっか………」
 すっかり日も暮れてしまっていた。とはいえ、これが朝比奈さんならともかく男の俺が一人なので、
「すいません、遅くまでお邪魔しまして。それじゃ俺は帰りますね」
 第一、上級生とはいえ女性宅にこんな時間までお邪魔していたというのが良くないだろう。長門の場合とは違い、鶴屋さんはあくまで一般人なんだからな。
 それにこれ以上は流石に親の目も気になってくる。ある程度は放任主義でもある俺の親だが無断でここまで遅くなればカミナリの一つも覚悟せねばならないだろう。
「…………はい、それでは私が責任を持ってお預かりいたしますので。ええ、明日には帰れますから。どうも申し訳ありませんでした、それでは失礼致します」
 って、誰と電話しているのだろうか? 随分と丁寧な話し方だったのだが、話し慣れているのだろうな、鶴屋さんは携帯を切ると、
「うん! これで大丈夫だよ! 今日はあたしん家に泊まったらいいさ!」
 はあ? まさかさっき話してたのは………
キョンくんのお母様だけど?」
 いや、何で鶴屋さんが俺の家の電話番号を知ってるんですか?! というか泊まるってどういうことですか! いくら俺でも困りますって!
 いきなりの展開に慌てふためきながら俺が抗議の声を上げていると、
「まあまあ、あたしは気にしないっからさ!」
 俺が気にするんです! まずなにより俺はまだ泊まるとは、
「そんじゃまあ、ご飯にしよっか!」
 強引極まりない事この上ないな、だがこうなっては鶴屋さんのペースなのだ。この辺りはハルヒですら敵わない、このお方が決めた事には逆らう事はほぼ不可能なのである。
 しかしまあ、鶴屋さんの家の夕食などと庶民からすれば悪魔の誘惑に近いものだ。これを逃す手はないな。
「分かりました、夕飯まではご馳走になります。その後は帰らせてもらいますよ」
 流石に釘は刺しておこう、このままズルズルと泊まる訳にはいかないからな。しかし豪放磊落を絵に描いた先輩は破顔一笑
「そうだね、まずはご飯にしよう!」
 どこまで聞いてくれているやら。とにかく晩飯は確定のようだ、それはそれで楽しみにしておこう。この時はまだ俺は呑気にそう思っていたりしたのであった。