『SS』 純な恋愛小説のススメ 愛すべき担当編

 『純な恋愛小説のススメ 愛すべき担当編』


 
  わかっていた。わかっていたつもりだった。だけど結局は何一つ知らなかった、わかっていなかった。
 前を歩く彼女の小さな背中が言葉にできない寂しさを物語り、どうしようもない運命に従おうとしている。昔のように荒々しく抗おうとすることもせず、ただ静かに、何も言わず、従う。牙を抜かれた百獣の王、そんな表現が今は彼女には合っている。それほどまでに、彼女は冒険をしなくなった。それは子供から大人へなった証なのだろう。けれど、似合わない。

「あたしがあんたから離れるのはけじめなのよ。いつまでも甘えている訳にはいかないの。」

 俺がついている後ろを振り向きもせず、この寒さに比例するかのような冷たい言い草だったが、言葉の所々が少し湿っぽく感じた。

 泣いているのか、聞きたいことをぐっと飲み込んで、唸るように出した声は恐ろしく低かった。

「わかってる。いつまでもお互い高校生気分じゃ居られないことぐらいはな。」

 肺の中にある濁った空気を全て吐き出すように言い切った。音よりも空気が多かったせいか、彼女の耳には言葉が途切れ途切れに聞こえたかもしれない。

「この夜を超えたら、会うこともないわ。」

「ああ。」

「あんた、そんなに悲しそうに感じないわね。人の事は言えないけど。」

「運命なら仕方ないだろ。それに俺は感情表現が下手なんだ。」

 最後の最後までこんなくだらない事を言い合う俺たちは、今日が最終期限の恋人同士。明日からはただの顔見知りの関係に戻る。そして彼女は、俺の知らないどこか遠くへ行ってしまうらしい。もう二度と手が届かないような、遠い所へ。

 彼女を追いかけるような形で歩き続けていると夜はさらに深まり、時計の長針と短針は重なりはじめて次の日が来ることを示そうとしていた。

 長いこと続いていた夢の中で、終焉を告げる鐘が鳴り響く。

「あと5分。」

 腕時計の文字盤が歪んで見えるのは、眠気のせいか、それともこの別れを惜しむ涙のせいか。どう足掻いても俺にはわかりそうにない事柄。

 ふと、彼女は立ち止まりくるりと振り返った。瞬間、俺は唖然とした。今までに見た事が無いぐらいに、彼女の端正な顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたからだ。厚くもなく薄くもない唇を真一文字にきゅっと結んで、これ以上涙を零すのを我慢しているように見える。だがそれまでに十分涙を落とし過ぎていて、普段は明るい光で満ちている大きな目が今は真っ赤になっていた。

「おい、大丈夫か。」

 俺は思わず駆け寄り、コートのポケットからチェックのハンカチを取り出して渡したが、彼女はそのハンカチをただぎゅっと握りしめたままで使おうとはしなかった。

「ごめん。」

 頷くことしかできなかった。これ以上泣き顔を見ていると、自分まで涙が溢れてきそうで怖かった。条件反射のように俺は下を向いた。

「最後まで困らせてごめんね。昔のあたしなら言えないことだったけど、今なら言えるわ。」

「このぐらい、昔に比べれば楽なもんだ。遠慮せずにそのハンカチ使え。」

「駄目。だって使ったら、もう返せなくなるかもしれないし。」

「ハンカチの一枚や二枚ぐらい買う金は儲けているさ。それに」

 新しい日まであと1分。

「こいつが俺とお前を繋ぐ絆になるかもしれないだろ。」

 悲しさを心の奥底へしまい込んで、無理矢理に微笑んで言った。

 こんな小さなものが絆になんてなる訳が無い。けれど、俺と彼女のどちらかがこのハンカチのことを覚えておけば、そこに絆は見えてくる。

「かっこつけすぎよ。」

「あと30秒でお別れなんだ。最後ぐらいかっこつけたって誰も文句は言わん。」

 そうだろう、首を傾げながら同意を求めてみたが彼女の方は呆れたような笑いを浮かべて肩を竦めた。

 最後に見た表情が呆れ顔なんて。全く、俺たちらしい別れの仕方としか思えない。

 短針が長針に重なるまであと0秒。







 別れの風は俺たちの間を、夜の闇を鮮やかに駆け抜けていった。

 そして、夢の終焉を告げる鐘の音がぴたりと止んで、俺の頭の中はいつもの様に静かな湖面へと変わっていた。







「何ですか、これ」

 10分前にプリントアウトしたばかりの原稿を読み終えた橘京子は、その原稿を机の上に投げ出した。俺は作家の担当者としてはあるまじき行為に当たるのではないかと思ったが、それを口に出して言葉にするのはやめておいた。30が近い女に、作家が―大して売れている訳ではない―紡ぎ出した言葉で責めることはよくない。逆にしっかりした理論で跳ね返されるのが見えているからだ。ハルヒにしろ、橘にしろ、どうしてこうも女というものは強いんだろうか。人間というものはいつまでたっても難しい生き物に違いない。

「普通の原稿だ。今回はちゃんと約束の期日を守ったぞ。」

 苦過ぎて目も頭も覚めるようなコーヒーに口をつけながらソファへ座り、さっき橘が投げ飛ばした原稿を取った。

「あのですね、約束の期日は私が編集長に何回も頭を下げて延ばしてもらっていたんです。それをさも間に合ったかのような。」

「というかな、編集長に言えよ。俺にこんなもの書かせるなって。」

 橘の大きな溜息を耳に聞きながら、さっき書き上げたばかりの原稿を眺めた。まだ依頼された純愛小説は書けていないというのにも関わらず、橘の上司は痛快ミステリー作家の俺に、掌編の恋愛作品を書けと言ってきたのだ。なんとまぁ無茶なことをと橘は思ったらしく最初は壮絶な勢いでその話を断ったのだが、どうしても読みたいという読者がいるとうまく説得され、結局俺は最も苦手とする恋愛にまたもや手を出すはめとなってしまった。

 コーヒー、私ももらっていいですか。俺がいいと返事をする前に橘は勝手に食器棚を開けて自分専用のカップを取り出して、ポットに入っているコーヒーを注いでいた。

「ちゃんと断ろうとしたんですよ。けど、上手く丸め込まれまして。」

「丸め込まれてなかったら、今頃こうして下らない原稿を見ることもなかっただろうよ。」

「そんなこと言わなくてもいいじゃないですか。私はこういうの好きですよ。」

 表情も一切変えずにコーヒーを啜りながら言う彼女の言葉は信じていいのかよくわからなかったが、こいつが担当になってからそんな褒め言葉らしきものを聞いたことがなかったので、曖昧に濁して返事をしておいた。こうしてたまに褒められるのが一番困る。

「それならよかった。鬼のような橘担当の心に響いたのなら、一般の読者にもいけるんだろうな。」

「どういうことですか、それ。まるで私が心のない人間みたいな言い方ですよ。」

 器用にも片方の眉をつり上げて怒る様は、ある意味で人間離れをしているというか何と言うか。似非作家の俺には、今の橘にぴったりな表現が見つけられないことが恥ずかしい。

「そんな顔してるから男が寄り付かないんだよ。」

「な、そんなこと。」

「わかってる。お前が昨日合コンで不作だったのも全部知っている。」

 俺は髭を剃ったばかりの顎を撫でながら、やけに弾んだ声で言ってやった。途端、橘の顔がさあっと青ざめていくのがわかる。目から生気が抜けていくのが見え、この情報が本当だということを裏付けていた。ここまで来ると、彼氏募集に必死な橘が哀れに見えてきて同情の念さえ浮かんでくる。なんと悲しきことだろう。

「大丈夫、見た目だけなら抜群に可愛いお前が結婚できない訳がないからな。」

 決して冗談で言ったことじゃないのだが、橘の方は恨めしそうな表情をして、

「もし結婚できなかったら、キョンさん、責任とってくれますか?」

「あ、あぁ。責任でもなんでも取ってやる。」

 出来る範囲内だけだぞ、そう付け足しておかないと、この担当は突拍子の無いことを言い兼ねない。現にさっきまでの恨めしい表情から一転して、どこかの誰かにうつされたのではと思うほどに明るい笑顔を浮かべている。

「へへ、それがいつになるか楽しみですね。」

「だから、そのXデーが来るってことは、お前は一生彼氏が出来ないときだぞ。」

「いいんです。だってキョンさんが責任とってくれるんでしょ?」

「一応はな。」

「そのときは彼氏になってもらいますから。」

 魅惑のツインテールの担当は、いつもの腹黒さも感じさせずに、純粋な初恋をしている乙女のような顔つきで言ってくる。表向きは嫌そうな顔をしておくが、意外と心の中では嬉しい気がしないこともない。

 なんだかんだ言って俺は、この鬼担当をいつの間にか愛しているのかもしれない。

「そのときがくればな。」

「約束ですよ、先生。」

 なんとまぁ、世の中は難しいことか。成立し得ない恋愛がこうして罷り通ることが驚きで仕方が無い。けれど、そのシナリオを描いたのは他でもない俺とこの愛すべき担当であるし、否定もしない。

 とにかく今は、これから彼女が参加するであろう合コンで、運命の人と呼ばれる奴に出会わないことを祈るしかない。





 終わり♪