『SS』 長門有希の消失

 いつかこんな日が来るかもしれない――
 漠然とだってそんなことは思いもしなかった。
 ずっと一緒に居られる。
 俺はそう信じて疑わなかった。
 そしてそれはいつも文字通り俺の傍に寄り添っていたあいつだってそう思っていたのに……
 しかし……




 長門有希の消失




「どうしたのよ? 何か思い詰めているような顔してるけど」
 俺が教室に入ってくるなり、一番後ろの席に居るんで真っ先に目に飛び込んでくる我らが団長が虚を突かれた表情をしたのである。
 窓ではなく入口をハルヒが見ていた、と言うこと自体なかなかあり得るものじゃない。
 かと言って今の俺に沸き起こった事態を思えばこういう日常と違うことがあっても何ら不思議はないのかもしれんがな。
 で、俺が近付くとハルヒがそう声をかけてきたんだ。
「いや別に」
 努めて平静を装ったつもりで返すと、
「ちょっと!」
 がたん、とけたたましく椅子音を立てながらハルヒが立ちあがった。
 そしてそのまま俺のネクタイを捩じり上げ、怒りで釣り上った大きな瞳で3?の距離から睨みつけ、
キョン! 今のあんたの表情を見てあたしが何も分からないとでも思ってるわけ!?」
 苦しい……息が詰まる……と言うかクラス中から注目を浴びてるぞ!
「だからどうだってのよ! 解らない? あんたが深刻に悩んだ顔してるから相談に乗ってあげるって言ってるのよ!」
 そ、そうか……それはありがたい……なら俺を締め上げてるこの手の力を緩めてくれないか……?
 が、ハルヒはさらにその手に力を込めた。
「……からかうつもり? はぐらかすつもり?」
 う……ハルヒの奴、本気で怒ってやがる……こいつは参った。ハルヒの奴が俺のことを本気で気遣ってくれているんだ。
 確かにハルヒなら解決してくれる問題かもしれん。
 しかしだな。どうやったってハルヒに相談なんてできないんだ。これが相談できるとすればそれは一人しかいない訳で。
 てことだは。
 どう言えばハルヒは納得してこの怒りの鉾を納めてくれるかだが……
「……多少、心の整理がついたら話す……じゃ、駄目か?」
「む……」
 お、ハルヒの表情が変わったぞ。少しは脈ありか? 手に入っている力も緩んだしな。
「俺だって今はまだ混乱してるんだ。ちゃんと筋道を立てて説明できる自信がない。要領を得ない話をしたらお前を混乱させちまう。それじゃ何の解決にもならなくなるし、だからもう少し待ってくれ」
「あっそう」
 ほ……ようやく解放されたか。
「じゃあ!」
 な、何だよ!?
「あんた、今日の団活休んでいいわよ! ゆっくり家で静養しなさい!」
 なんだって!?
「仕方ないでしょ。そんな鬱状態じゃ団活に身が入るわけないじゃない。もし今日、あのいけすかない生徒会長やお隣さんがケンカ売ってきたら対応できないでしょうが」
 お前は一体生徒会長やコンピ研を何だと思ってるんだ?
 なんてな。
 実は俺にとっては今日から休みを貰える方がありがたいんだ。
「分かったよ。ありがたく休暇をいただくぜハルヒ
「よろしい! あ、でもこの休んだ分は今度、罰金で徴収するからね!」
 って、何だそれは?


 放課後、俺は真っすぐ家に帰らずに別の場所へと向かった。
 と言う前振りだけでもう解るよな?
 そうだよ。俺は長門が住む高級分譲マンション708号室へと出向いたんだ。
 何故かって?
 実を言うとだな……




 有希が……消えたんだ……




 どれくらい待っただろう。
 実は俺は長門の部屋の合鍵を貰っていた。理由は聞くなよ。と言うか誰もが想像した通りだから敢えて特筆すべきことでもないしな。
「お待たせ」
「いや、こっちこそ勝手に上がり込んで悪かったな」
「あなたなら構わない」
「そうかい」
 俺は戻ってきたこの部屋の主とそういう会話を交わす。
「茶でも淹れるか?」
「それはわたしの役割」
 立ち上がりかけた俺を制して長門は台所へと向かう。
 この長門は有希のダミーだ。
 有希の親玉が、有希が居ない状況をハルヒが好ましく思わない、と言う理由で作り上げた替え玉だったのだが、とある出来事があって99.9871%の有希となったのである。
 もっとも俺はこいつを『長門』と呼んでいるがな。でないとややこしくなりそうだし、何よりこいつには悪いが俺は有希の方がいいからだ。
 さて、長門が淹れてくれたお茶を3杯空けて、
「で、何がどうなってやがる?」
 急須がカラになったところで立ちあがりかけた長門に話しかけた。
 静かに長門が正座し直す。
「これは情報統合思念体の意思」
 だろうな。そんなことは分かっているさ。だが、どうして有希を抹消する必要がある?
「それはあなたにも解かっているはず」
 長門の無表情だがなんとも真摯な色を携えた瞳が俺を射抜いてくる。
「……あえて聞いているんだが?」
 それでも俺はその瞳を真正面から受け止めてさらに問うた。
「わたし――正確にはわたしのオリジナルである彼女の役割は涼宮ハルヒを観察し、情報の本流を情報統合思念体に送ること。でも今のわたしのオリジナルはその任務を遂行できない状況にある」
 何言ってやがる。お前らの親玉が有希をメンテナンスなんてするからハルヒを観察できなくなったんだろうが。それを有希に責任転嫁するのはお門違いも甚だしいぜ。
「違う」
「なんだと?」
「オリジナルは涼宮ハルヒを観察する任務を放棄しいていると情報統合思念体が判断した。理由は――」
 すっと長門が手を持ち上げて指をさし、
「あなた」
 ――!!
 長門の瞳はなんとも辛く苦しそうだった。
「ここ半年ほど、情報統合思念体にオリジナルから送られてくる涼宮ハルヒの情報が激減したとのこと」
「……十二分の一になってるからじゃないのか……なら情報だって十二分の一になるはずだ……」
「それならば情報統合思念体は任務放棄と判断しない。送られてくる情報が十二分の一以下になっただけでなくオリジナルから奔流される情報が涼宮ハルヒ以外のことが明らかに多くなったから」
 俺の苦しい言い訳をものともせず長門は淡々と続けくれる。
 まあ、な……俺にだって解っていたさ。
 明らかにここ一年の有希は変わった。俺と一緒に居る所為で色々な感情を身に付けてきているんだ。喜び、慈しみ、快楽、悲痛、嘆き、と言った普通の人間が本来持つ感情をだ。
 俺やSOS団にとってはその方が好都合さ。むしろ望んだことでもある。有希が感受性豊かな普通の女の子になってくれるならみんな大歓迎だからな。
 しかしだな。それは有希の親玉にとっては不都合なんだ。
 奴にしてみれば有希は対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイスであって、ハルヒから流れる情報を得て自律進化を推し進めるための道具なんだ。
 つまり、有希が世界を改変させたあの冬、俺が有希を人間扱いしない有希の親玉に怒りを感じたように、有希の親玉も俺に怒りを感じたんだ。
 本来の有希の目的を忘れさせようとしているってことでな。
 くそ……どっちが悪い、じゃないじゃないか……
 有希はハルヒがいたからこそ誕生できた。そしてそのおかげで俺たちは出会えたわけだが、皮肉にも俺と有希が付き合いだしたからこそ、有希の親玉が有希を必要しないと考え始めたんだ。
 ついでに今、俺の目の前に(有希の親玉にとっては)有希の代わりができそうな存在もいるしな。
「ただし情報統合思念体はオリジナルを抹消したのではなく回収したと推測できる」
 長門
「なぜならわたしとオリジナルは常に同期状態にある。0.0129%のメモリー不足分は週末に補わなくてはならないがそれでもお互いがお互いの存在について感知することはできている。情報統合思念体からの連絡はないがわたしはオリジナルの存在が消滅していないことを解っている」
 ほ……
「ただ、情報統合思念体がどこにオリジナルを幽閉もしくは隔離したのかは不明」
 構わんとは言わんが、本当の意味で有希が居なくなった訳じゃないことが分かっただけでも収穫だ。
 ところで、お前にはお前らの親玉がどこに有希を連れて行ったかの推測はできないのか?
「推測でよければ」
 それで構わんさ。
「わたしがオリジナルの存在を感知しているがどこに居るのかまでが解らないということは、おそらく情報統合思念体はオリジナルを次元断層に軟禁した」
 何だって?
「次元断層とは通常空間の狭間。そこは通常の宇宙空間よりも広い世界でオリジナルの今の体長を鑑みれば探索するのは不可能」
 ま、まあ……そうだろうな……はっきり言って冥王星辺りから地球のミトコンドリアを目視する方がまだ楽なんだろうよ……つか、どっちにしろスケールが違い過ぎる。
「しかし情報統合思念体は見つけ出すことができる。そうしなければ情報統合思念体自身がオリジナルを探せないから。ただ問題は情報統合思念体がどのような意図でオリジナルを次元断層に追いやったのかが解らない。わたしにその理由を説明されることもない」
 このまま永久追放ってことはないだろうな?
「それは……」
 ん?
「それ……は……」
 はて?
「そ……れ……は……」
 何だ?
「……」
 おい! 完全に固まってしまったじゃないか? 言っておくが再起動なんて無理なんだぜ?
 しばし沈黙。
 と言うか沈黙しているわけにもいかないので、俺は長門に近づき、
『ここからは我が説明する』
 いきなり顔を上げた長門がそう言葉を発したんで俺は絶句した。
 淡々とした物言いは物言いだが明らかに今までとは違う口調だったから。
『どうやらわずかではあるがこのインターフェイスの言語機能を使い情報の伝達は可能のよう』
「……」
『ただし、うまく言語化できるか自信がない。情報の伝達に齟齬が生じるかもしれない。しかしそれは仕方ないこと。なぜなら言語を用いない概念は言葉以外のものでしか伝えられないから』
 ……まさか……俺の目の前に居るのは……
『我はこのインターフェイスが『情報統合思念体』と伝達した存在』
 『長門』がそう言った瞬間、部屋の風景が様変わりした。


『さすがにあの空間では我が収まるには小さ過ぎる。故にこの建造物の分子の情報結合を組み換えこの世界を構築した』
 むろん、俺の時間は止まったままだ。
 そんな時間の止まっている俺の周囲はどこか月面から見た地球張りに広大で果てが全く想像できない世界になったんだ。
 何の冗談だ? そう言えば以前、朝倉がこの星の建造物は簡単に改変できると言っていたが……
『貴殿に忠告しておく』
 が、『長門』のそのセリフは俺の時間を動かし始めた。
 なぜかって?
 それはこう続けたからさ。
『これ以上、あのインターフェイスを貴殿に縛り付けるのは遠慮してもらいたい』
 かちん!
 さっきまでの緊張感も葛藤もどこへやら、ってやつだ。
「俺と有希は望んで二人でいるんだ。誰にだって指図されるいわれはないね。俺も有希もお互い離れるつもりはない」
 我ながらあっさりと言えたもんだぜ。
 そうさ。俺にとって有希はそういう存在だ。
『忠告と言ったはず』
 もっとも情報統合思念体とやらは、淡々とそう切り返してきやがる。
 背中に寒いものが駆け抜けたが、んなもんに尻込みしていられるかよ。なんたってこいつは俺と有希を引き裂こうとしているんだからな。
 いや、考えてみれば俺はこいつに文句の一つでも言ってやりたかったんじゃなかったか?
「そういうあんたこそ、有希を自由にしてやれよ。でなきゃまた、あの冬みたいなことになるかもしれんぜ?」
『それは貴殿がそうさせた。我の意志とは無関係。多少、感情の享受は可能にしてあったが、本来、あのインターフェイスは与えられた役割を果たしてさえいれば異常動作を引き起こすことはなかった。しかし貴殿が余計なことをしたがためにエラーが蓄積した』
 俺の……所為だと……?
『そう。貴殿は涼宮ハルヒにとっての鍵として役割を果たしていればよかったものを、あのインターフェイスに幾度となく気を使ったためにインターフェイスの中に我から与えられた役割と貴殿への言い知れぬ感情が相俟ってショートし始めた。それがエラーが発生した理由』
 ――!!
 お、俺が有希に気を使ったから……だって……?
『もっともあの件においては我からも貴殿に礼を言う。貴殿の行動がなければ我は消滅したままになっていた。だからこれまでは貴殿らのことを黙認していた。しかし、これ以上、かのインターフェイスと貴殿のことを認めるわけにはいかない。それは我にとっての目的が果たせなくなるから』
「馬鹿なことを言うな! 有希はあんたの道具じゃない! なら別の人造人間とやらを作ってでも有希を解放してやりゃいいじゃねえか!」
情報統合思念体は一体に付き、一つしかインターフェイスを創造できない。なぜならインターフェイスは生命体でもある。我は人と違い交配して生命体を創造する力を有していない。故にインターフェイスを一体創造するにも相当の負担が我にかかってしまう。自律進化を諦めていない今、まだ生命活動を停止したいとは思わない』
 ……そういや、朝倉も喜緑さんも有希とは別の派閥が誕生させたものだったよな……あと朝倉と喜緑さんでさえ所属する派閥が違ってたっけか……
『今一度、忠告する。貴殿は、かのインターフェイスにこれ以上深入りしないでもらいたい』
「き、聞けるわけないだろ……有希と別れるくらいなら俺は……」
『貴殿には涼宮ハルヒが居るはず』
「それでもだ! 俺はハルヒじゃなくて有希を選んだ! あんたには解らないかもしれないが俺も有希も一緒に居るのは理屈じゃない! だから別れるなんてできるものか!」
『ならば我も不本意だが貴殿を抹消し、この惑星から貴殿の記憶を消す。それ以外にあのインターフェイスが元の役割を果たせる方法がないから。だから忠告と言った』
 な……んだと……?
『幸い、ここに涼宮ハルヒはいない。ましてや涼宮ハルヒは自身の力を意識していない。故に、たとえ涼宮ハルヒに対してでも、そこに記憶操作できる余地がある。現にあのインターフェイスもそれを実行している』
「て、てめえ! てめえにとっては俺の命なんてその程度のものなのかよ!?」
『貴殿は今までこの惑星で蚊と呼ばれる吸血昆虫を一匹たりとも叩き潰したことはないと言えるのか?』
「そ、それは……」
『ならば我が、居ると煩わしい存在に気を使わないことを咎める権利は貴殿にない』
 俺には返す言葉がなかった。
 感情では割り切れるものではないが、確かにあいつが言っていることは理屈に適っている。
 すっと、『長門』が俺に掌を向けて――
 突然、俺の目の前に強烈な光が発生した!
 くっ! 有希の親玉が本気で俺を強制的に排除しようってか!?
「どうやら上手くいったようね。それにしても無茶だったわ。こっちの世界のあなたをあなたが感知してテレポートするなんて」
 ――!!
 が、突然、目の前から響いてきた幼げで甲高い声に俺は愕然とした。
「ただいま」
 と同時に俺の右肩に感じる小さくしかし全身に広がっていく温かさ。
 凄く馴染んだ、それでいて今はそれを心の底から望んでいた温もり。
『ば、馬鹿な……何故……?』
 情報統合思念体から愕然の声が漏れる。
「有希!?」
 俺は驚嘆の声を上げた。
「ううん。もう再会する可能性は皆無に等しい、って宣言したのにこれじゃ説得力無いわね。でもまあ二度目までなら偶然だからいいか。三度目はさすがに無いでしょ」
 肩越しに朗らかな笑顔を向けてきたのは、クリスマスイブの夜に出会った、いつぞやの文化祭で有希が扮していた魔女っ子スタイルで、北高制服の代わりに紺のローブを纏った、見た目、朝比奈さんより童顔で小柄な、有希以上にスレンダーボディの、セミロングヘアのカラーがシアン色というところと両目の色が違うところに非現実感を助長させる中学生っぽい少女に見えて、その実、有希曰く、二十歳を過ぎている異世界に生きる魔法使いの女性だったのである。
「な、な、な、な、な……」
 もちろん俺も言葉になるはずがない。
 が、目の前の魔法使いは俺から『情報統合思念体』に目を移し、
「ふうん……初めて見たけど確かに凄いわね。あの子の向こうにいる存在、私の目にも捉えられないなんて……違うな。捉えられないんじゃなくて理解できないのかも」
 などと呟いている。
「問題ない」
「まあね」
 まだ絶句している俺の耳に有希と魔法使いの声が届いて、と同時に有希が魔法使いの右肩に乗った。
 はて?
「ええっと、ジョーホートーゴーシネンタイ、だっけ? 悪いけど、こっちの彼女の存在、認めてあげてくんない? これからはちゃんと任務もこなすって言ってるしさ」
 うぉい! 交渉ですか!? というか有希の親玉にはこの魔法使いの声って届くんか? この魔法使いの力ってそんな化け物みたいなものなのかよ!?
「違う。彼女は言語を用いるがその意思を伝えるのはわたし」
 有希が冷静に答えてくれる。
「ちなみにわたしが彼女の右肩に乗ったのは彼女が左利きだから。左手は自由に使える方がいい、と彼女が言った。これがわたしがここに居る理由。わたしが利き腕を占拠したいのはあなただけ」
「ええっと、ナガトさん? 私は早く話を進めないとマズイんだけど」
「了解した」
 魔法使いのツッコミに有希が再び視線を『情報統合思念体』へと向ける。
 ん? 早く進めないとマズイって何だ?
 という問いかけはとりあえず有希と魔法使いのやりたいことが終わってからにしよう。
「で、どうなの?」
 再び魔法使いが確認を求めている。
 しばし沈黙の後、
『それはできない』
 なんて答えやがる有希の親玉。
「何でよ?」
『今、このときの彼女の決心は信用できるだろう。しかし時が経つにつれ、それが薄くなる可能性を否定できない』
「なら、その度にあんたが警告すればいいじゃない。抹消なんて乱暴なことしなくてもさ。そのためにあんたが在るんじゃないの?」
『言っておくが、我が見ている視界は貴女が想像しているよりもはるかに広い。そんな中でこのインターフェイスだけを見ていることはできない』
「そりゃ広いでしょうよ。彼女から聞いたけどこの銀河を網羅しているみたいだしね。でもさ、少なくとも彼女からの情報が減少すればそれに気づけるでしょ? そん時に注意すればいいじゃない。情報そのものはあんたに直接流れ込む形にしてるって話を聞いたわよ」
『なぜ、貴女がそのインターフェイスに拘る? あなたは本来、この次元とは無関係のはず』
「確かにその通りだけどね。でもさ、別の並行世界で私たちはキョンくんに助けられたことがあったのよ。なら世界が違ってもキョンくんはキョンくん。恩返ししたいと考えるのは人間なら当然なの。あ、この感覚はあんたには無いものなのかな?」
『……』
「言っとくけど、私はともかく彼女は命をかけて交渉しているわ」
 それまでの軽いノリが一転、魔法使いの言葉には有希の親玉さえ絶句させる迫力があったのである。
 ……?
 何だ? 今、とんでもなく重要なことを言ったような気がしたが……
 何と言った? 『彼女も命を賭けている』だって……?
『どういう意味……?』
「言葉通りよ。聞いた話だと彼女が存在できるのはあんたがいるから。でも、あんたが消滅すれば彼女の今の自我も崩壊する。それを賭けている、って言ってるのよ」
 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 そ、それはまさか……有希の親玉を消し去る力をこの魔法使いは持っているという意味か……?
『虚勢。異次元世界に生きる者よ。我の目は誤魔化せない。貴女の力が通常、有機生命体が有する力から比べればはるかに大きいことは認めるが、それでも貴女に我を抹消させられるまでの力はない』
「なら、試してみる? 人間の叡智ってのはね、途方もない力だろうと、違う道からそこに辿り着くことだってできるのよ」
 情報統合思念体の言葉を切り捨てて、とんがり帽子と前髪の影で瞳を隠し不敵な笑みさえ浮かべているような雰囲気で、彼女は左手に持っていたロッドを軽く翳し――
 その先端に付いている宝石から強烈な光が発せられる!
「なっ!」
 俺はそれを見て驚嘆の声を上げた。
 そりゃ仕方がないってもんだぜ。なんたって、あの情報統合思念体が、正確には奴が取り憑いている『長門』の目の焦点が狂って来てやがるんだ。しかも顔面蒼白になり、体中が痙攣してやがる!
『こ……この力……は……!』
 情報統合思念体が狼狽してやがる……いったい何が……
「この力は……わたしが以前……涼宮ハルヒの力を利用した時に……使ったもの……」
 ――!!
 今度は声にすらならなかった。
 何故かって?
 当たり前だ! 言葉を発した魔法使いの右肩に乗っている有希の姿が薄れて、あたかもノイズ画像のようにブレてやがるんだ!
「あの時……わたしは……情報統合思念体さえ……消し去った……その力の残留情報が……彼女の持つ杖の先の先端のデバイスに……込められている……」
 じゃあ何か!? お前の親玉を消し去ってしまえばお前は……消えるってことなのか!?
「そう……そして……今はダミーの……わたしがオリジナルの……わたしとなって……正確にはあの時のわたしとなって……生まれ変わる……」
 やめろ! 俺はお前が傍に居てほしいんだ! だから……!
「心配いらないわよ。これは脅し」
 肩越しに魔法使いが俺を見やる。もっともその表情には笑みさえ浮かんでいるのだが。
 で、俺が何か発する前に、
「どうする? あんたが精神体だろうと思念体だろうと『生きる者』よ。死にたくないなら彼女の条件を呑むしかないわ」
 光を収めた魔法使いが情報統合思念体に毅然と言い募る。
 光が収まると同時に、有希と情報統合思念体が元に戻った。
 なんつう力だ……こんな物騒な力をこいつは平然と使いやがったのか……確かにこいつは『途方もない力だろうと、人間の叡智は違う道からそこに辿り着くことだってできる』とは言っていたが……
『……もしかして、そのインターフェイスの中にも今の力が埋め込まれているのか……?』
「まあね。本当は残留思念から全データを取り出して世界創造の研究をしてみたかったんだけど、さすがにそれは情報量が膨大すぎたわ。私の持つ私の生きる世界で最大の容量を持つデバイスでも半分どころか十分の一も入らなかったんだから。なら今回必要な力だけを抽出記録するまでよ。まあそれでもギリギリだったけどね。それを記録したチップを彼女の頭の中に埋め込んだ。しかも直接、脳にリンクしてあるから『考えるだけで』発動させられるわ」
『……我がそのインターフェイスから除去しないとでも思っているのか……?』
「いくらあんたでもこのチップの除去はできないわよ。だって、これは私の世界の技術で埋め込んだものなんだから。つまり、除去しようとすれば向こうの世界の技術が必要になる。どんなに高度な科学技術を持っていようともこの世界に無いものを使えば技術力の差は関係ない。それに、こっちの世界に『生きる』あんたに向こうの世界の技術を知る術はないし、知らなければ強制的に壊すしかない。でもね、彼女の死と同時にこの力は発動するようにもしてあるわ。だからあんたにこのチップを取り出すことはできない」
 例えるなら野球バカにサッカーで勝負しろ、と言うようなものだ。確かにバリバリのメジャーリーガーだろうと経験がなければ、フィジカル面はさておき、はっきり言って小学生のサッカーチームに勝てるかどうかは甚だ疑問なことだろう。
 ましてや情報統合思念体は自身での自律進化は限界に来ているという有希の話だ。言い換えればこれ以上、進化できないということでもある。
 でなけりゃハルヒを注視する訳がない。
 となればだ。 
『なるほど。なら、そのインターフェイスの要求を呑むしかない』
「解ってもらえてうれしいわ」
 魔法使いが満足げな笑みを浮かべていることがこの背中越しからでも容易に想像できる声で呟き、しかし俺は別のことで驚嘆していた。
 銀河を統括するような輩と対等に話をしやがったことよりも、有希が俺の傍に居るために本気で自分の命を賭けて交渉していたことに度肝を抜かれたんだ。
 これは……俺はとてつもなく重いものを背負った気分だぜ……
『では、我は今回は去るとしよう。しかし忘れるな。お前は任務も遂行すると言ったことを――』
「了解」
 有希が、おそらく首肯したのだろう。
 それを見届けて、情報統合思念体はこの場から消え去ったようだ。
 なぜそんな推測ができるかだと?
 当然だ。
 あいつが作り上げた情報制御空間が、普通のいつも通りの有希の部屋に戻ったからだ。
「じゃ、私もこれで帰るから。なんせこっちに居られる時間に制限があるからね」
 突然、魔法使いが俺に無邪気な笑顔を向けてくる。
 と同時に、有希が俺の右肩に乗り替えた。
「時間制限?」
「そうよ。そうしないと今度は私がこっちの世界に取り残されちゃうのよ。詳しい説明は省くけど魔力発動持続時間と思ってちょうだい。それが切れる前に戻らないと」
 まったく意味が解りません。
「別の表現をするなら、彼女は向こうの世界から命綱を付けてこっちの世界に来たということ。その命綱は時間が経つと消え失せる」
 なるほど、そういうことか。
「今度こそ、もう会えなくなるだろうけど元気でね」
 魔法使いの周囲から光の粒子が立ち上り、
「二度あることは三度あると言いますけど?」
「それでも無理よ。今、私が向こうの世界に戻ってしまえばあなたたちと私を繋ぐ糸は完全に切れちゃうから。そっちの彼女の頭の中にあるチップからこっちの世界に来ることもできないしね。今回はたまたま彼女の中に私の残留魔力があったから彼女が向こうの世界に来てしまったけど、その魔力も消え失せちゃってるわ。だから三度目は限りなく不可能に近いわ」
「そうですか」
 俺は苦笑を浮かべるしかできなかった。俺も有希もこの魔法使いには感謝してもし足りないってのにもう会えないというのは何か寂しいとか辛いよりも別の感情で別れ難いもんだ。
「ありがとう」
「どういたしまして。んでキョンくんとお幸せに。じゃあね」
 再び、あの無邪気な笑顔を見せて魔法使いは自分の本来在る世界へと帰って行った。




 あの出来事から一夜あけたその日の朝。
「あなたの精神状態は相当高いレベルで維持されている」
「そりゃそうだ。お前が肩に居るってことがそうさせているんだろうぜ。当たり前が一番の幸福だってことを教えられたよ」
「それはわたしも同じ」
「だろ?」
 そんな会話を交わしながら俺は北高名物強制ハイキングコースの坂を登って行っていた。
 そう言えば今回、どうしてあの魔法使いが現れたのかを説明させてもらえるかい?
 有希が話してくれたんだが、長門が言った通りで有希は有希の親玉によって次元断層に放り込まれたそうだ。
 まあ、はっきり言って謹慎処分だな。
 しかしだ。そこからが情報統合思念体でさえ予測していなかった不測の事態の発生だ。
 それはあの魔法使いと供に有希が現れたことが関係している。
 次元断層に放り込まれたらどうなるか。
 本来、有機生命体であればほどなくその生命活動を停止してしまうそうなのだが、生命体とは言え有希はヒューマノイドインターフェイスだ。次元断層だろうと(生命活動自体は停止してしまうのだが)人間でいうところの『死』を迎えることはなく『活動を休止する』というものになるらしい。
 でだ。
 生命活動を休止すれば当然意識がなくなる。
 ところがだな。そこにとんでもない偶然が潜んでいた。
 以前、クリスマスイブの夜にいきなり遭遇したあの魔法使いは、理屈はともかく、俺を魔法で小さくした。俺が小さくなっている間は当然俺の体は魔力を帯びているのである。そしてその後の禁則事項な情事があり、俺から有希へとナニかを通じて魔力の奔流が意図せず施された。それが有希の体の中に残っていたところ、魔力を生み出したあの魔法使いの元へと、魔力の『帰巣本能』が働き有希を彼女のいる世界へとテレポテーションさせてしまったとのことだ。もっともその魔力はテレポート時に消費しちまってるそうだがな。これがもう俺たちが向こうの世界に行くことができないって理由だ。理屈はさっぱり理解不能だったのだが、有希が細かく説明してくれたおかげで漠然とは理解できた。しかし俺のボキャブラリーではとても説明できるものではないので省かせてもらうぜ。
 んで、偶然はもう一つあった。
 有希に奔流した魔力が生み出されたのはクリスマスイブのことだったがために魔力もまた、こっちの世界で言うクリスマスイブの日へとタイムテレポートしたのである。
 まあ、朝比奈さん曰く、時間と時間の間には限りなく0に近いとはいえ断絶があるらしいからな。この理屈と帰巣本能の意味を考えればそうなるのも不思議はないのかもしれん。もっとも、このタイムテレポーテーションの可能性は有希曰く三十万分の一とのこと。どんな計算でそれが成り立っているのかは説明を受けたが全然理解できなかったんでさっぱり分からんがとにかくそういうことらしい。
 そしてそこで再会したあの魔法使いが有希曰く、向こうの世界一の大天才科学者でもあったらしく、魔法と科学を融合させた、今、有希の脳に埋め込まれている情報統合思念体を抹消させる力を有するチップを開発したとのこと。
 あとはこっちに来るためにあの女魔法使いが命綱を付け、長門が言ったように有希と常に同期している訳だから今度は逆の帰巣本能によって有希がこっちの世界に戻って来たって訳だ。ちなみにこれも計算根拠不明の成功確率は三十万分の一だったらしいがな。
 三十万分の一の確率を二つ潜り抜けたなんてとんでもない話だ。もしかして今この世界は三十万がキーワードになっているのか?
 ったく、これをマジでハルヒに話したらどんな反応を見せるだろうね? なんたって異世界人に宇宙人に超能力にある意味、有希の感覚での経過日数を思えば今の有希は未来人だ。
「話すことは推奨できない」
「分かってるさ。ただ想像してみただけだ」
 言って俺は二年五組の教室の入り口をくぐる。
「ふぅん。何か知らないけど昨日の悩み事、どうやら解決したみたいね」
 俺が席に着くなり、ハルヒがなんとも上機嫌な笑顔で話しかけてきた。
「まあな。おかげでお前にいらん心配をかけずに済んで良かったよ」
「なら、今日からはちゃんと団活に来なさいよ! それと週末は――」
 ハルヒの300ワット増しの笑顔の演説を眺める俺と有希。
 ハルヒには分からないように二人でお互い頷き合って。


 今、確かにここにある日常にこれほど感謝できることはなかなか無いだろうぜ。



                                                                    長門有希の消失(完)