『SS』 涼宮ハルヒの別離 8

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 二人で歩く帰り道。お互いに何も話さなくても通じ合ってるのが分かる。自然に繋いでいる手から伝わる温もり、胸の奥から静かに温まっていく。
 その心地良さに溺れたい。何時までもこうしていたい。二人でいることがこんなに幸せだなんて思ってもみなかったもの。
 
 
 だけど。

 
 幸福な時間はあっという間に過ぎていく。いつも楽しい、幸せな時間はあたしが望むよりも早く。
「その、いいのか?」
 うん、あたしがそうしたかったから。キョンの家の前までついてきてしまったのも、そこから離れられないのも。
「なんだったら上がってくか?」
 そうしたい。最後まで一緒にいたい。でも、
「どうしても、行かなきゃいけないとこがあるの」
 そうじゃなきゃ、あたしは本当に幸せになれない。きっとキョンも。そしてキョンもそれを分かってくれた。
「……………頼む」
 あんたが言わなくても大丈夫よ、あたし自身が話さなきゃいけない事なんだから。だから…………
「行くわ、また明日ね!」
 笑って見送るために。自分の気持ちにきちんとけじめをつけるために。
ハルヒ………」
 でも、ちょっとだけ。あとちょっとだけの勇気が欲しい。だからキョンに抱きついた、何も言わず抱きしめてくれるくらい分かってくれてるから。キョンの体温が、あたしに力を与えてくれる。
「………ごめんな」
 ううん、謝らなくていいよ。だって『あたし達』はそんなあんたが好きなんだから。
「待ってて、明日まで」
 きっと見送りに行くから。その時はもっとちゃんとしたあたしだから。
「ああ、待ってる」
 そう言って、抱きしめられてる腕に力が込もった。キョンの想いが、流れ込んでくるようで。でも、それに浸るわけにはいかない。
 まだ、あたしにはその資格はないから。
「……………行ってくる」
 そっとキョンから離れて、二、三歩後に下がる。視線の先にはあいつの顔、それを正面から見ていられるように。
 少しづつ後ろに下がって。キョンの顔を瞳の奥に刻み込んで。そして一気に決意を固めて。あたしは振り向いた、もう後ろは見れない。次にキョンを見てしまえば簡単にあたしの決意は崩れてしまうだろう。
 




 振り返りたい気持ちを必死になって抑え、まっすぐに歩く。そこにはあたしが会わなきゃいけない人がいる。ある意味ではキョン以上に会わなくてはいけない娘が。
「………………」
 逃げ出したい。今ここまで来てても足がすくんでしまう。
 怖い、会いたくない。でも会いたい、会わなきゃいけない。会って……………………どうするんだろう……………
 分からない、どうしたいのか自分でも分からない。それでもあたしはここに来た。そうしないといけないって事だけは分かっていた。
 緊張する、今までこんな事なかったのに。震えそうになってる指で、ゆっくりとボタンを押す。
 お願い、出てちょうだい。でも怖い。
 インターフォンから声が聞こえるまでそんな思いをしなくてはならない。それでもあたしは待つことしか出来ない。

 
 返事は、なかった。


 分かってる、無口な子だから。それでも怖くなってくる。無視されても当然だから、嫌われてても仕方ないから。
 それでもあたしは会いたいの、話したいの! だから何時まででも待つつもりだった。許してなんて言えない、でも。
 話したい。あたしはあなたのおかげで素直になれたんだから。
「……………有希?」
 いるのよね? あの部屋に。このマンションにいるわよね? もしいなかったら……………
 背筋が寒くなる。あたしならどうしたか考えたら、ここに居なくてもおかしくないから。でも、あたしにはここしか思い浮かばなくて。
 ……………待とう。どんなに時間がかかってもいい、あたしは有希に謝らないままでキョンには会えない。それがあたしが有希に出来る唯一の事だから。
 もう外は真っ暗で、ここはエントランスだから明かりはあるけどそれでも誰もいないから暗くて。でもそんなものは怖くはない、ただ機械の向こうから声が聞こえないことだけが怖かった。
 どのくらい待ってるんだろう? 時計なんか見る気もないし、もしかしたら全然時間なんか経ってないのかもしれない。だけどあたしにとっては永遠とも言えるほどの時が流れていった。
「……………あ……」
 何度目か分からないインターフォンを押した後。どうしても声が出せないままに切れようとした時。
「…………入って」
 え? 小さく聞こえた声と開いた自動ドア。考える間も無く飛び込んだ。少なくとも会えるんだ、それだけでも嬉しかった。
 



 だけどエレベーターで昇る中で、また不安が甦ってくる。どんな顔をして会えばいいんだろう、ううん、有希がどんな顔をしているんだろう。
 その顔は、あたしがしているはずだった顔。今のあたしだから分かる、一番したくないはずの表情。そんな顔をさせたのは、あたしだ。キョンのせいじゃない、あたしの臆病な気持ちのせいだ。
 そんなあたしが、あの子にどんな顔をして会えばいいんだろう? あたしの自己満足なの? それなのに会いたい、会わなくちゃいけないと思い続けている。
 苦しいほどの相反する思いに捕らわれながら、いつの間にか部屋の前に立っていた。もう一度ドアホンを押す勇気があるのかな、それさえもあたしにはとても辛い事のような気がして。
 結局勇気もないままにドアノブを掴んでしまったあたしの耳に、
「入って」
 確かにあの子の声が聞こえた。小さいのに確かに聞こえたの、有希の声が。そのまま促されるようにドアを開け、何も言わないままで中に入ってしまった。
「………有希?」
 玄関には誰もいない。声は聞こえたのに、でもそれも何となく納得しちゃってる。だから部屋に行かなくちゃ、待ってるはずなんだ。どんな形であっても会ってくれるんだから。



 そして、有希はそこに居てくれた。


 何もない部屋に一人座って。静かに、本も読まなくて。ただ、座ってた。
 その姿が、まるで人形みたいで。でも、あたしには泣いてるようにしか見えなくて。悲しみが、部屋全体を包み込んで押し寄せてくるみたい。
 後悔してる、あたしは何を言おうとしてたんだろう。ううん、何が言えるんだろう。馬鹿だ、あたしは。有希に何か言いたいなんて思い上がってた、あたしに何か言う資格なんてないのに。
「有希…………」
 立ち尽くすしかない。いや、逃げ出したい。ゴメンって言って走ってここから居なくなりたい! そんなことしたら二度と有希の顔は見れなくなるけど、それでも怖くて、あたしは有希に会う立場なんかじゃなかったんだって思い知らされて。それなのに逃げる事も出来なくなっていて、足がまるで張り付いたみたいに動けない。
 どうしようもなくなって、ただ時間が過ぎてくのさえ怖くなってきた時。静かに座ってた有希が、静かに口を開いた。
「わたしは………」
 その声はいつもと同じすぎて。想像してたものと違いすぎて逆に落ち着かなくなる。
「前夜、彼と接触した。彼をこの部屋に呼び、わたしは全ての想いを彼に告げた」
 そうだろうな、この子は自分の意思を曲げたりはしない。その強さがあたしには勝てないと思わせたもの。
「彼は真剣にわたしの話に耳を傾けてくれた。会話の終了後も真摯に熟慮し、わたしはそれを待った」
 キョンの真剣な顔が浮かんでくる。きっとあたしに話してくれた時と同じくらい、有希の為に考えていたんだろうな。
 けれど、キョンの出した答えをあたしは知っている。 
「彼は言った。すまない、と」
 それは有希にとっては残酷な宣告そのもの。
「わたしの想いには、応えることが出来ない。彼はそう言って頭を下げた」
 その時有希はどんな表情をしてたんだろう、今のような無表情でいられたのだろうか? そんなことはない、だって。
「…………わたしは、彼にふさわしくなかった?」
 そんなことない! だって有希は何でも出来て、可愛くて、綺麗で、キョンはそんな有希をいつも見てたんだもん。あたしなんか敵うわけないって、ずっと思ってたもの。だから、
「あたし! あたし、いつも有希に負けてると思ってた! だっていつも有希ばっか見てたもん! それなのに、あたしなんか!!」
 訳も分からなくなって叫んでた。有希がふさわしくないなんて誰にも言わせない、あたしがそう思ってるのに!
「それでも、あなたは選ばれた」
 それは…………!! 時が凍る。あまりに重い一言、そこに有希が込めた想いがあたしを貫いていく。
「有希、」
「謝らないで」
 予測していたように言葉を塞がれた。そんな、あたしはでも、どうしても有希に謝りたかった。
「わたしは謝罪を求めてはいない」
 突き放すような声。当然よね、それだけの事をあたしはしたのだから。
「違う」
 え?
「わたしは、あなたが、羨ましい」
 あの時と変わらない、真剣な瞳。その黒く美しい光があたしを捕らえて離さない。
「あなたのように笑いたい、彼が望むのならば。あなたのように彼と接したかった、わたしは、」
 瞳の光が、揺らいだ。
「あなたになりたかった」
 哀しい、だけど真剣な告白。
「けれど、わたしはあなたにはなれない。結果としてわたしは選ばれなかった」
 言わないで! あなたの悲しみが、悔しさが、あたしを押し潰す、それは後悔にも似た罪悪感。
「あ、あたし………」
「………俯かないで」
 折れそうな首と心を、有希の言葉が繋ぎとめた。
「え………?」
「そのような姿を望んではいない。彼も、そしてわたしも」
 声に宿る力強さ、そこに揺らぐものはなくて。あたしはもう一度有希を見つめる、そこにある全てを。
「選ばれたあなたを、選んだ彼を、わたしは誇りに思う。そしてわたしがあなたたちと居られる事を、感謝している」
 それはあたしの方だ。有希、あなたがいてくれて良かった。
「わたしは彼が好き。そしてあなたも。彼はわたしの想いを受け止め、あなたに想いを告げた。あなたはそれに応え、わたしはその事を祝福出来る」
 きっと有希は一人で、この部屋でずっと考えていたんだろう。悔しかったんだ、哀しかったんだ、寂しかったんだ、それなのに。
 今あたしを見る瞳はやはり力強くて、あたしはやっぱり敵わないと思わされて。
「あなたでなければ彼は渡さない。あなただから、わたしは今ここにいる。わたし自身の整理に時間はかかったけれど、あなたを迎え入れることが出来た」
 ああ、やっぱりこの子は強いんだ。誰よりもあたしは嫌われて当然なのに、誰よりもあたしを嫌って当然なのに。なのに、
「………どうして?」
 そんなに強い瞳であたしを見られるの? あたしなんかに会ってくれてるの? ねえ、あなたのような強さがあたしは欲しかったのに。
 あたしだけが戸惑ってる。自分から望んだはずなのに。それだけ有希はいつもどおりの有希だった。
 静かな部屋で、あたしと有希だけがそこにいて。あたしは有希の言葉を待っている。
「今ならばわたしは、あなたと彼を祝福出来る、受け入れられる。何故ならばあなたは、」
 突然有希が言いよどんだ。
「わたしが…………」
 どうしたんだろう、何故か有希が戸惑ってるように見える。まるで言ってもいいのか迷ってるみたいに。
 でも、少しの沈黙の後、決意を込めて有希は言った。
「わたしは、あなたの、親友だから」
 もう、ダメだった。
「有希!!」
 あたしは有希を抱きしめていた。
「ごめんね、ごめんね! 有希……」
 抱きしめながら泣いていた。有希の気持ちが痛くて、嬉しくて、でも哀しくて、なのにそう言ってくれてるのが嬉しくて。
「………謝らないで」
「うん、うん! 大好き! あたし、有希の事が大好きだから!!」
 あたしの最高の親友、同じ人を好きになって、同じように悩んで、それでもあたしと一緒にいてくれる! そんなあなたがいてくれて良かった、あたしは一人なんかじゃなかった。
「わたしも、あなたが好き」
 静かに回された腕から有希の温もりが伝わってくる。罪悪感も、少しだけ溶けていったような気がした。
「ありがとう、有希…………」
 泣きながら有希を抱きしめ、あたしは本当の幸福を得た気がした。
 最愛の人と、最高の友人が、あたしには居てくれるんだっていう幸福感に、ただ包まれていた…………