『SS』 涼宮ハルヒの別離 5

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 …………どうやって帰ったのか覚えてない。でもあの部屋にいられないことだけは分かってた。
 何も考えられなくなって、連絡があったのかもどうでもよくって、みんなに合わせる顔なんかなくって、逃げるようにあたしは学校を後にしたんだと思う。
 そこからどうしてたんだろ? 気がついたらベッドで倒れこんでるあたしがいて。制服のままだから皺だらけになっちゃってたけど気にならなくって。ただ喪失感だけが頭の中を駆け巡ってる、何もかもを無くした様な空虚な心の中だけがそれに応えるように痛んでる。
「ふ………うぅ…………」
 ダメだ、気がついた途端に泣きそうになる。もう何で泣いてるのか分かんなくなってるのに、涙だけが溢れてきて止まってくれない。
 あたしが…………あたしじゃ無くなってく。壊れてく、あたしじゃない何かに。こんなのあたしじゃないって思ってるのに、壊れていくのが分かってく。
 助けて………キョン…………あたし…………あんたに…………
 その時だった。あたしの制服のポケットの中で軽快な音楽が鳴り響き、壊れてく体を振動が繋ぎ止めてくれた。
 いつもよりも動かない手を無理やりに動かしてポケットから携帯を取り出す。誰でもいい、今のあたしを助けてくれるなら。祈るような思いで着信を見たら、そこにはみくるちゃんの名前が出ていたのだった。
 …………あいつじゃなかった…………そんな事にすら愕然としてしまう自分を心から嫌悪する。だけど今は電話をもらえる事が嬉しい。だから祈るような思いで電話を取った。
「…………もしもし?」
 ゾッとするほど暗い声。あたしがしゃべってるなんて思えない。でも今のあたしにはその声を出すのですら苦痛だった。
『涼宮さん? 大丈夫ですか?!』
 電話の向こうの、みくるちゃんの声は心配してくれてるけどやっぱり可愛い声だった。それが悲しい、あたしはまともに声も出せなくなってるんだ。
『………すずみや、さん?』
 ああ、またみくるちゃんを心配させてしまってる。しっかりしなきゃ、キョンが信じてるあたしはしっかりしてて……………怒らせることなんかなくって……………どうして? どうしてあたしこうなんだろ? 大事な人たちを悲しませてるのに………
『涼宮さんっ!!』
 それは今まで聞いたことの無いみくるちゃんの声だった。暗い思考に落ちそうだったあたしを無理やりにでも引っ張り揚げようとしてくれる声。
『待っててください! 今行きます!!』
 え? どうして? 今からって…………混乱しているあたしに電話の声は、
『外を見てください!』
 外?! 慌ててカーテンを開ける。そこには、まだメイド服のままのみくるちゃんが携帯を片手に立っていた。そんな、まさか着替えもしなくてあたしの家まで…………… 
『………あたしが戻ったときには、もう涼宮さんはいませんでしたから』
 だからわざわざあたしを追いかけてくれたの? 何も考えず、ただあたしの事を心配してくれて…………
『少し、お話をしませんか?』
 みくるちゃんは窓の外で微笑んで待っている。あたしは…………身なりを整える事もせずに外へとのろのろと出て行った。何故だかは分からないけど、みくるちゃんと話したかったから。
「………ここでいいですか? ごめんなさい、歩かせてしまって」
 ウチの近所の小さな公園のベンチでみくるちゃんは腰をかけ、あたしに頭を下げる。そんな、あたしの方が悪いのに。そう思ってるのに声には出せなくて、あたしもみくるちゃんの隣に座っただけだった。
「これだけは用意してきたんです」
 そう言って小さな魔法瓶を取り出したみくるちゃんはコップにお茶を注いでくれた。まだ湯気が立つそのお茶の香りは、みくるちゃんの優しさのようで暖かい。
「どうぞ、少しでも喉を潤してくださいね」
 そういえばずっと泣いてたから、喉も渇ききってたな………一口飲んだお茶は、とても美味しかったの。まるで心の中まで染み入ってくるように。
 大事に、一口が大事に思ってゆっくりとお茶を飲むあたしに、
「涼宮さん、キョンくんに………………いえ、キョンくんと会いたいですか?」
 手の動きが止まる。みくるちゃんは言葉を続ける。
「ごめんなさい、今の涼宮さんを見ると明日学校に来ないかもって思ったんです」
 そうね、行きたくない。だって明日が終ればキョンはいなくなっちゃうし、それに。
 怖い。有希のあの瞳が頭から離れない。きっと有希はキョンに好きだって言ってる。それにキョンがどう答えたかも分かるもの、そんな二人に会う資格があたしなんかにあるはずがない! でも、それでも……
「………分からない、分かんないのよ!」
 叫びは虚しく響くだけで。振り乱した髪の感触すら疎ましい。あたしはなんにも考えられなくって、想像する事全てがあの悪夢へと繋がっていく。
 有希とキョンが微笑んで去っていく。あたしは動けなくって、泣いてるだけで、叫んでも届かなくって。
「だってキョンには有希がいるじゃない! あたしはキョンを怒らせて、困らせてるだけで何にも出来なくって! あたしなんかいなくたって、」
 パンッと乾いた音が空気を振るわせた。あたしの左の頬が熱くなってる。
 そして、叩かれたあたしよりも、もっと哀しそうな顔のみくるちゃんが真剣な眼差しで見つめていた。
「しっかりしてください!!」 
 どうしてだろう、あたしは叩かれたはずなのに。何でみくるちゃんのほうが泣きそうなんだろう。何であたしの為に泣いてくれるんだろう。
 叩かれた頬に手をやることもなく、呆然とみくるちゃんを見る事しか出来ない。頬の痛みだけが現実とあたしを繋いでいる、だからまだあたしはみくるちゃんを見る事が出来ていた。
「…………落ち着いて聞いてください」
 静かに告げるみくるちゃんの声には強い意志が込められていた。いつもの気弱なみくるちゃんじゃない、今のあたしなんかよりずっとしっかりした声。
「あたしは、いいえ、あたしもキョンくんの事が好きです」
 ああ、そうか。不思議なくらい腑に落ちた。みくるちゃんとキョンもどこかあたしの知らないとこで通じ合ってたし、それは有希の言葉の後だとあたしの敗北を告げられているみたいで。
「そう、有希には負けないでね」
 あっさりとそう言えた。そこにはあたしの居場所がないから。あるのは絶望だけだった。
 でも、みくるちゃんは首を振り、
「いいえ、涼宮さん? あたしがキョンくんを好きになったのは確かですけど、それにはちゃんとした理由があったんです」
 その顔に浮かんでいたのは微笑みだった。何故? どうしてみくるちゃんは笑っていられるんだろう?
「あたしはドジで、何にも知らされてないからみんなに迷惑ばかりかけちゃって。それでもキョンくんはいつも助けてくれていました。だからあたしはダメだって分かってても彼に惹かれていったんです」
 そっか、キョンってそんな奴だもんね。自分は関係ないって顔してるくせにいっつも誰かの為に何かしてるんだ。
 その中にあたしも入ってたのに。いつもキョンに頼ってばかりだったのに。
「でもですね? 気付いちゃったんです。あたしが好きになったキョンくんは、」
 みくるちゃんは笑顔のままで。
「いつも誰かを見ていました。その人の笑顔を見てるキョンくんの優しい微笑みが、あたしは大好きだったんです」
 それはあたしにも分かる哀しい告白。好きな人は自分じゃない誰かを見ているって分かってしまった、その事をみくるちゃんはどう受け止めたんだろう。
 今ならあたしにも分かる、だってあいつは有希を見てるんだから。
「あたしはその人も大好きだから、凄く納得しちゃいました。だってキョンくんを見てる彼女も自分では分かってないけど輝くような笑顔でしたもの」
 そう言いながら、みくるちゃんの視線はあたしから外れることもなくって。
「だから涼宮さん、あなたはキョンくんにちゃんと話してください。SOS団の団長さんじゃなくって、一人の女の子として」
 みくるちゃんの言葉は重くあたしに圧し掛かってきた。あたしが? そんな事出来ない、だって、
「無理よ…………だってキョンには有希がいるもの」
 これだけでみくるちゃんも分かってくれるわよね? だからもうあたしには、
「いいえ」
 え? みくるちゃんは笑顔のままであたしの言葉を否定する。どうして? 何でみくるちゃんがそんな事言うの?
「だって言ってるじゃないですか、あたしが好きなキョンくんは輝く笑顔の女の子しか見ていないって」
 それは………
キョンくんが長門さんを気にかけているのも分かります。でもね?」
 分かっちゃうんです、笑ってみくるちゃんはそう言った。
「だって好きな人のことですもん」
 そう、笑って。
「だから、」
 そっとみくるちゃんの手が伸びてきて。
「あたしは涼宮さんのことも大好きです」
 みくるちゃんに抱きしめられていた。暖かな体温があたしを包んでいる。まるでさっきまでのあたしの暗い気持ちを溶かしていくように。
「明日、絶対に学校に来てくださいね。そして、涼宮さんの本当の気持ちを。心からの言葉をキョンくんに言ってあげてください」
 抱きしめられてるから、あたしの頭の上から降ってくるような声はとても優しくて。
「大丈夫、大丈夫ですから」
 髪を撫でられてる感触が心地良い。全てをみくるちゃんに包まれてる気がしてきて、ただみくるちゃんの言葉だけがあたしの心に染み込んでくるようで。
「……………あたし、キョンに会っていいの?」
 だってあいつを怒らせた。
「ええ、きっとキョンくんは涼宮さんの想いを聞いてくれます」
 自信に満ちたみくるちゃんの声があたしの不安を少しづつ消していってくれる。あたしを助けてくれるその声は、まるで天使のようだった。
「でも、有希は………」
 それでもまだあたしは踏み出せない。有希に勝てそうもない、あたしには有希のような強さなんか無かった。
「涼宮さんがキョンくんを好きだっていう気持ちは長門さんには勝てませんか?」
 それは………負けてるなんて思いたくない。あたしだってキョンが好き、その事にはっきりと気付いてしまったから。
「だったらそれをキョンくんにきちんと伝えなくちゃいけません。涼宮さんは、何もしないままでいいんですか?」
 みくるちゃんの声が後押しする。あたしの小さくなった気持ちを励ましてくれる。そうだ、何もしないままなんて嫌だ!
「あたし、大丈夫よね?」
 お願い、もう少しだけあたしに力をちょうだい………………そして、みくるちゃんは分かってくれた。
「ええ、大丈夫です。だって涼宮さんですもん!」
 ギュッと抱きしめられた。少しだけ苦しくて、思い切り嬉しくて。
「うん、うんっ!」
 あたしもみくるちゃんを抱きしめていた。大丈夫、これだけ言ってくれる人がいてくれた。それだけでも、あたしは大丈夫なんだ。
 嬉しくて、さっきとは違う涙を流しながら、あたしはキョンにはっきりと自分の気持ちを告げる決意をしたのだった。


 ありがとう、みくるちゃん…………