『SS』ネクタイ

朝、目が覚めてから行う行為というものは毎日決まっているものだ。
特に学生というのは基本的に学校へ行くのだから、その作業は同じ事の繰り返しであってしかるべしである。
ということで俺はいつものように顔を洗って薄いかもしれんが一応髭を剃る。
制服に着替えて、ネクタイを……………
と、ここで何故か今日の俺はいつもと違う何かを求めてみたくなった。
いや、いつもが普通と違う連中に囲まれている中を普通で居続けてる俺なのだが、そういうことではない。
そうだな、何となくなんだよ。
俺はYシャツのボタンを一番上まで留めると、ネクタイをきっちり締めてみた。
鏡の前に、妙に畏まった顔の俺がいる。古泉や国木田はいつもこうで疲れないのか?
だが俺の好奇心はその時無敵状態だったようで、
「あー、キョンくん今日はかっこいいー!」
などと言う妹のお世辞にも微笑みで返せてしまいながら、この生真面目モードで学校に行く事にしてみたのである。

「ぶっ! な、なんだキョン? お前そのかっこ………いまさら真面目ぶんなって!!」
失礼だな谷口。俺がたまにネクタイをちゃんとするのがそんなに可笑しいか?
「いや、キョンはその方がいいと思うんだけど。きちんとすれば気も引き締まるだろ?」
それ、褒めてねえだろ国木田。だがまあたまには首周りが締まってるのもいいもんだな。
「それが正しいんだけど」
まあな、でも楽な方がいいさ。今日はたまたま気分転換しようと思ってな。
そのまま自分の席へ行くと、先に来ているハルヒは机にもう伏せている。お前な、今から寝るくらいなら家でギリギリまで布団の温もりの楽しさを味わってた方がいいんじゃないか?
まあ遅刻寸前よりは学生としては正しいんだが。
という事で、いつものように挨拶だけはしておく。しないとまた後がうるさいからな。
「よう、おはようさん」
「んー? あ、おは…………!!!」
なんだ? 顔を上げたハルヒの顔が驚きに固まっている。
しかも見る見るその頬が赤くなっていったかと思えば、
「お、おはよ……………」
そのまま、また机に伏せてしまったのである。何やってんだ、お前?
「な、なんでもないわよ! いいから前を向く!!」
分からん。が、これ以上何を言っても意味がなさそうなので、仕方なく前を向いた。
背後から、
「なによ…………キョンのくせに、キョンのくせに……………」
などと呟く声が聞こえてくるんだが気のせいだろうか?

それから授業中は珍しく何も後ろからちょっかいをかけられる事もないままだった。
よほどよく寝てるのかとそっと後ろを伺えば、真剣な目で俺を見ているハルヒと目が合ってしまい、
「!!!!!」
やはり赤い顔のハルヒから消しゴムを投げられてしまうのである。
何かしたか? 俺。
だが視線だけは外された様子もないまま昼休みを迎えてしまうのだった。

キョン!!」
ハルヒの怒鳴り声に、
「なんだ?」
と答える。昼飯はいつも一番に飛び出すハルヒが谷口たちと弁当を食おうとする俺を呼び止めるなんてな。
そのまま凄い目つきで俺を睨んだハルヒは、
「フンッ!!」
と凄い勢いで教室を飛び出したのだった。相変わらず赤い顔のままで。
「どうしたんだ、お前ら?」
谷口のからかうような口調に、
「知らん。顔が赤いようだったが」
としか言えない俺に国木田が、
「なにか涼宮さん、怒ってるのかなあ?」
などと言うので正直肝を冷やした。
ほんとに大丈夫か? 俺。

そしてハルヒは昼休み終わりギリギリに戻ってくる。なにかハアハアと息切れしてるんだが、走ったりしてたのか?
「おい、大丈夫か? なんなら保健室でも行くか?」
と気を使ってみたものの、
「うるさい! 早く前向いて! 早く!!」
などと返される始末である。どうしたんだろうね、こいつは?
「…………やっぱり………………キョン…………」
呟きに俺の名前を混ぜるな、心臓に悪い。
本当に身に覚えがなかったか、ここ何日かの記憶を思い出す作業で午後の授業内容が頭に入らなかったのは言うまでもないだろう。

そのまま放課後。今日はどちらも掃除当番ではないので部室まで一緒に行く事になるのだろう。
やれやれ、せっかく締めたネクタイだがこれでグチャグチャだな。
いつもどおりなら俺のネクタイはここでハルヒにふんづかまれて、そのまま引きずられる運命なのだから。
ところが、
「さあ! い、いくわよ?」
と言ってネクタイを掴もうとしたハルヒがハッとした顔をすると、
「あ…………」
そのままネクタイには手を付けず、
「うん、行きましょ」
などと言いながらソッと俺の制服の袖を掴んだときにはもう俺は驚きを越えて世界の終わりを感じた。
これはきっと何かハルヒの逆鱗に触れたに違いない。
はあ、これから部室で俺はどんな目に会わされるのだろうか…………
暗澹たる思いで俺はハルヒがいつもよりはるかに弱く引く袖に引かれながらSOS団の活動に出向くはめになったのだった。

ところが事態は思わぬ方向へ。
部室に赴いた俺とハルヒの前には朝比奈さん。しかも制服のままである。
「どうしたの、みくるちゃん?」
当然ハルヒもそう聞くのだが、そろそろ袖は離してもらえないか?
「あ、涼宮さんたちを待ってたんです。それが長門さんが急用ができたらしくて、それにあたしも鶴屋さんがどうしてもって言うので買い物にお付き合いしないといけなくなっちゃって……」
鶴屋さんなら仕方ないが、長門の急用は気になるぞ。
もしまた何かの事件が、など俺が嫌な予感になりかけたらハルヒの携帯が鳴り出した。
「はいもしもし? 古泉くん? え? そっかバイトならしょうがないわ」
古泉か、バイトってことはまた青いあいつか? その原因がもし俺なら後で何を言われるか分からんぞ。
というか、片手で器用だなハルヒ。袖は離してくれていいぞ。
「それじゃみくるちゃんも有希も用事があるのね?」
「は、はい………」
まずいぞ、まさか誰もいないなんてハルヒの機嫌が、
「それならしょうがないわ。今日はこれで解散! みくるちゃん、鶴屋さん待たせてんでしょ?」
「え? は、はい! すみませんがこれで失礼しましゅ!!」
最後はバタバタと朝比奈さんは走っていってしまった。
なんとも珍しい、こんな時間に解散とは。
なによりもここまでハルヒが聞き分けがいいとはな。これで袖を離してくれれば言う事ないのだが。
「あたし達も帰りましょ!」
そうだな、結局ハルヒは俺の袖を引いたまま下駄箱まで歩いたのだった。

「で?」
「で? ってなにが?」
いや、お前が俺の袖を掴んで離さない件なんだが。
「い、いいじゃない、たまには」
まあな。でもお前、顔が赤いままだぞ? というか今日は一日そうだったな。
「熱でもあったのか?」
計ろうとハルヒの額に手を伸ばそうとすると、
「な、な、なんでもないからっ! 大丈夫!!」
と言って俺の手を避ける。だが袖から手は離さない。
「なんでもないじゃねえだろ、訳を話せ。出来ないならこの袖を振りほどいてでも一人で帰らせてもらうからな」
流石にこっちもカチンとくるだろ? 顔は赤い、袖は離さない、なのに避けられるなんて。
「ご、ゴメン……………」
あれ? てっきり逆ギレの鉄拳が飛んでくると思い、構えていた俺に意外な一言。
あのハルヒが素直に謝っている。それどころかボソボソと、
「だって…………ネクタイ………ビシッと締めてるキョンが…………何か別人っていうか、きっちりしてるあんたってカッコいいな…………って、あたし何言ってんの?」
なんて呟くものだから、
「ちょっとは惚れ直したか?」
と冗談を飛ばしてみた。
すると、
「うん…………」
そうかそうか…………!!!
「あ…………!!!」
い、今お前頷かなかったか?
「あ、あんた何て言ったの?」
……………うわ、気まずい。
違うな、恥ずかしいぞ、これ。
ただ、なんとなく締めたネクタイのように俺はなんとなくハルヒの手を袖から離し。
「なっ?」
なんとなくその手をしっかり握っていた。
「…………………」
あー、なんだ今日は? なんとなく変わった事やったら、なんとなくこいつと手を繋いで帰る事になるとは。
そんな帰り道、
「なあハルヒ?」
「…………なによ?」
「これからもこの方がいいか?」
「……………」
ちょっとだけ俯いたハルヒは小さく、
「駄目」
と言った。何でだよ? お前がいいって言ってくれたんだぜ?
「だって…………」
そう言って俺の目を見たハルヒにはいつも以上の笑顔。
「そんなカッコいいキョンを見ていいのは、あたしだけなんだからね!!!」
はいはい、分かりましたよ。
俺は了承の代わりに握った手に少しだけ力を込めた………