『SS』 月は確かにそこにある 36

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 やがて、月の輝きのような静かな声が俺の頭上に降ってきた。
「顔を上げてください、もういいですから」
 俺は顔を上げた。そして見た。
涙は消え、優しく微笑みを浮かべる古泉一姫の顔を。目は赤く、頬も涙が乾ききってかさついている。
 それでも古泉の顔は綺麗だった。泣き顔さえ美しかった彼女はどんなに泣きはらしていても優しく眩しい笑顔で俺を見ることが出来る、そんな女性だったのだ。
「ずるいですね、あなたは」
少しだけ眉を顰め、でも嬉しそうに。
「そう言われてしまえば私には何も出来ないじゃないですか。だって私は古泉一樹でもあるのですから」
そう言いながら自分の胸に手を当てる。何か大切なものがそこにあるかのように。
そうか、俺はずるいのか。だが、どうずるいのか分からないくらいには俺はまだガキだった。特にこのような方面では俺なんて長門よりも分かってないのかもしれない。それでも古泉一姫は微笑んでいる。
「彼の、古泉一樹の願いは叶ってしまいました」
寂しそうに、嬉しそうに古泉一姫は呟いた。古泉の願い? それは、
「ね? だから言ったじゃないですか、ささやかな願いなのだって」
まったくだ、そんなのはバカ騒ぎの最中にでも肩でも叩いて言ってくれればいいだけの話さ。
俺達は友達なんだからな、ってだけの事なのだから。
「それが言えなかったのです。自分の被ってきた仮面に不安を覚え、怯えていただけの事なのに」
そうだ、俺は古泉一樹が本当に古泉一樹なのかどうかも知らない。『機関』とやらの与えた仮初めの名前なのかもしれない。


………………だからどうした?


万が一古泉一樹古泉一樹ではなかったとしても、あいつがあいつであることには変わりはない。作ったような爽やかな笑顔でハルヒの言うことを聞きながら俺達を引っ掻き回す立場でいい。
俺が俺である限りはあいつはあいつなんだ、古泉一樹は俺の親友だってだけだ。
「本当に、あなたに会えて良かった……『機関』からの命令ではない、本当の自分とは何かをあなたやSOS団のみんなと過ごすことで教えてもらえている気がします」
ああ、だから帰ろうぜ。俺達のSOS団に。
帰ったらお前に蹴りの一発でも入れてやるさ、その後ハルヒにどうやって話をするか相談でもしよう。あいつもそれなりに悩んでたって事くらいは俺にも分かったのだからな。
「そう、ですね」
古泉は静かに立ち上がった。俺もつられるように立つ。しかしここに来て最初の疑問に戻るのだ。
「だがどうやって帰るんだ? あちらの喜緑さんの脱出プログラムはもう無いんだぞ、こっちの喜緑さんはお前に会えれば分かると言ってたんだが」
すると古泉は微笑んだまま、
「帰るのは簡単だったのです。私もようやく気付いた、と言うべきなのですが」
自分の胸を押さえた。その微笑みが自虐的だったことに俺は嫌な予感を覚える。何だ? この異様なまでの気味の悪さは。
「おい、古泉?」
喜緑江美里のプログラムは脱出用などでは無かった。あれは分岐するためのプログラムだったのです、彼女なりの救済処置とでも言えばいいのでしょうか」
言ってる意味がさっぱり分からない。だが胸に起こった不安の種は増大しつづけている。嫌な経験だが俺の勘は悪いほうには良く働くんだ。
その予感が当たってはまずい、俺は古泉に何か言おうとしたはずなのだが。
「最初から気付くべきだったのです。これは『涼宮ハルヒの願う世界』なのだったと」
古泉の体が青く光った。そしてその光を覆うように赤い光が古泉一姫の全身を包む。
「な……?」
俺は言葉を失った。目の前で起こっている現象に頭が付いていかない、何故古泉が光になっている? いや、その光が問題だ、さっきの青い光は……そして今赤く輝く姿は見覚えがある。
 間違いない、超能力者としての証拠として俺に見せたあの赤い光に包まれた古泉がそこにいる。だが何故だ、ここは北高の中庭であって閉鎖空間じゃない。それに青い光はさっきみたばかりの長門と同じ、それは古泉達の敵であるはずの。
「どう、いうこと……だ?」
 呆然と古泉を見つめる。赤い光の中に佇む少女は悲しそうに微笑んでいた。
「見たままなのですよ。私は今、自分の能力と自分が何者なのかを知ってしまったとしか言えません」
 そのまま赤い光と青い光が交互に古泉一姫を包んで点滅する。まるで内部でせめぎ合うかのように。それは一度だけ間近で見た戦闘を喚起するかのごとく俺の脳裏に焼きついていった。
「説明しろ、古泉っ! お前、一体どうなっちまったんだよ?!」
「見ての通りです。私は超能力者、涼宮ハルヒの閉鎖空間で発生した『神人』を殲滅する為に存在する。その役割を今果たそうとしている」
 違う、俺が訊きたいのはそんな事じゃない! だが次の古泉の言葉で俺はこの世界の全てを知る。
 それは驚愕と絶望に彩られた独白だった。
「元々、涼宮さんが望んだのはささやかな願いでした。しかし、その願いを叶えるには彼女の自我はあまりにも堅固であり、その上脆かった。彼女は、叶わないと思い込んだ願いを叶える為に自らの意思どおりに動く世界を構築しようとした。覚えがあるでしょう? そんな空間を」
 全てが灰色の世界。そしてその中で蠢く青い巨人。破壊の後に創造があると、それは今までの世界ではない。そう、あいつは言った。
「だがその世界に自由に出入り出来る人物がいた。そして、彼もまたささやかな願いを持っていた。彼女の願いに上書きされるように、彼の願いは彼女の願いと同化した」
「それは……」
「結果として彼女の作る世界に彼は色を付けたのです。彼の願いは彼女の願いとなって世界は変わり、彼女の想いは形となって彼を変えた」
 そこまで聞いて愕然とした。古泉一姫の言う事が真実ならば。
「まさか、ここは?」
「ええ。ここだけじゃない、この世界は全て閉鎖空間の中なのです。始めからあなたは異世界に飛ばされたのではないのですよ、ずっと閉鎖空間に閉じ込められていただけなのです」
 耳を疑った。信じられる訳が無い、ここは灰色でも何でもないじゃないか!
「だからこそ私も気付かなかったのです。ですが、この世界の涼宮さんと長門さんをあなたも見たはずです。そしてそれは私も同様なのだということを」
 あの青白く光る長門。それは神人そのものだった、そして神人は人間の形態を取る場合がある事を俺は知っている。
「この世界の喜緑江美里は恐らく元の世界の喜緑江美里から事情を知らされたのではないでしょうか。だからこそ協力するつもりにもなったのでしょう」
 ようやく繋がった。ここに来るまでに喜緑さんが言った言葉の意味が。
 そうだ、ここが閉鎖空間というのならば正にこの世界は『人間』そのものだ。ハルヒの精神に古泉の思いが重なって出来た世界、人の想う心が生み出した世界とは言えない空間。
「だ、だけどそれでお前が力を使えるのは分かるが何で今なんだ? それにどこに神人が、」
 言いかけて気付く。いる。ここには神人が。青い光に包まれた神人は確かにここにいる。青ざめた俺の顔を見た古泉の顔も暗く翳る。
「そうです、私は涼宮ハルヒの願望。あなたに、好かれたいと思う心の化身。そして古泉一樹の願い。あなたと、対等に接したいという想いの象徴」
 そんな、馬鹿な。
「もうあなたは理解しているはずです。私が神人であるという事を。そして、この世界から脱出する方法を」
 古泉が右手を挙げる。その手のひらに赤い光球が浮かんでいた。それは古泉が超能力者だという証。
「神人が倒れれば閉鎖空間は消滅する。その為に、神人を倒す為に超能力者は存在する」
 待て、それをどうするつもりだ? 嫌な予感はもう確信に変わっていた。こいつ、自分自身を消すつもりだ! 俺は古泉に飛びかかった。
 だが、赤い光に撥ね返される。俺は情けなく尻餅をついた。かといって諦められるか、古泉を止めるべく叫ぶ。
「やめろ古泉! まだ方法はあるはずだ! そうだ、喜緑さんに相談するとか! もう一度プログラムを、」
 俺の言葉は最後まで言えなかった。古泉が静かに首を振ったからだ。
「もう、彼女に出来る事はありません。喜緑江美里は自分達の世界とこの世界を切り離す事で保護しようとしたのですが、理解していなかった私がその道を断ったのですから」
 喜緑さんはそこまでやろうとしていたのか、ここが閉鎖空間だと知りながら。
「ですが流石に二度目は無いんです。それに私もこの世界が残る事が良いとは思えませんから」
「何でだよ! このままじゃお前は消えちまうんだぞ!?」
 たとえ閉鎖空間だとしても、目の前に居るのが神人だとしても。俺が分かるのは古泉一姫という女の子が消えてしまうという事だけだ。それにこの世界に居るハルヒ長門、朝比奈さんやクラスの連中たちも。
 それを黙って見過ごせるか? 出来る訳ないだろ、バカヤロウ! しかし古泉は再度首を横に振った。
「それでもここは閉鎖空間なのです、万が一が無いとは限りません。それに、たとえこの世界が残ったとしても」
 憂いを帯びた声が小さく震えた。赤い光の中の古泉一姫の頬を一筋の涙が流れたのを俺は確かに見た。
「あなたは、いないんです。この世界のどこにも。あなただけは唯一であり、絶対なのです。それが涼宮さんの望みなのですから。だからあなたが元の世界に戻ればこの世界にはあなたが居なくなってしまう。私はそれに耐えられる自信などありません、それならば」
 あなたを救う為に世界を終わらせる。古泉一姫はそう言った。
「馬鹿! 俺はそんな事を望んだりしてねえぞ!」
「あなたが望まなくとも戻る為には必要なのです。大丈夫、閉鎖空間が一つ消滅する、それだけの話なのですから」
 そういう問題じゃねえ! 俺はもう一度古泉を止めるべく飛び掛ろうとして同じ様に赤い光に弾き飛ばされた。くそっ! 何でこんな時に何も出来ないんだ、俺は!
「本当にあなたは優しいんですね。終わる世界の存在しない私をまだ救おうとしてくれるなんて」
「世界がどうだろうと目の前で消えるなんて言ってる奴を放っておけるほど人間は出来てねえんだよ! いいからその赤い光を止めろ古泉ィッ!」
 光は止まるどころか益々勢いを増していく。中心に立つ古泉の姿が朧気になっていく。赤い球になるんじゃない、燃え尽きて消えていくように。
「ふざけんな! まだ諦めてるんじゃねえ、止めるんだ古泉!」
 声が届いているのか分からない、それでも叫ぶ事を止める訳にもいかない。俺は何度も古泉に呼びかけ続ける。
 しかし、光の中の古泉はゆっくりと両手を挙げた。その手には光の中でも分かるほど眩しく輝く赤い光球。
「…………私は、涼宮ハルヒ古泉一樹によって生み出されただけの存在かもしれない」
 光は周囲を照らし、中庭は赤く彩られる。
「それでも私はここにいた。確かに古泉一姫としてここに。そしてあなたの為に自らの力の全てを使って助けてみせる、私が私であったという証の為に」
 空を照らす光が闇を切り裂く。すると裂けた空間から赤い光とは別の白い光が差してくる。そう、空間が裂けて壊れていっているのだ。それはここが閉鎖空間であるという証拠であり、今まさに終焉を迎えようとしている断末魔だった。
「やめろ古泉! いいから俺の話を、」
「私は―――――古泉一姫は、他の誰でもない古泉一姫として、あなたが、好きです」
 古泉が光球を自らの胸に抱きしめる。その瞬間、青い光が柱となって古泉の体から立ち昇った。神人が、最後を迎えたように。
そして空が裂け、光が槍となって空間を破壊してゆく。校舎が光を浴びて崩れていく、それは通常の閉鎖空間の崩壊ではない正に世界の最後のようだった。
「チッ! 古泉!」
このままじゃまずい、俺はせめて古泉を助けようと光の柱へと駆け寄る。が、
「なっ?!」
地面が割れ、そこに出来た巨大な裂け目に俺の体は飲み込まれていった。チクショウ、俺はまだ古泉に何もしてやれてないんだぞ! あいつを、古泉一姫を助けないと。
「コイズミーっ!!」
最後にそう叫んだのは覚えている。
だが、伸ばしたはずの手の行方も分からないまま、俺は意識を失った。