『SS』 月は確かにそこにある 33

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次に気付いた時には周囲には何も無かった。場所にも見覚えは無い、天井から察するにどこかの部屋だとは思う。いや? 見覚えは無いが似たような光景を知っている気がする。
「ああ、気が付かれましたか」
その声に反応して身を起こすと眩暈がした。慌てる事も無い冷静な声がそれを制する。
「まだ急激な動作は慎んだほうが良いようです。肉体的損傷は回復させてありますが脳内の意識とに誤差が生じている為にショックで過敏な反応が出る恐れがありますので」
肉体的損傷? そうだ、俺は長門にナイフで刺されて…………慌てて腹をさすってみたが傷などどこにも無かった。だが、あの長門に刺されたという光景だけは異常な感覚としてプレイバックされる。一気に冷や汗が出てくるようだった。
「あ、俺は……」
「あなたは長門さんの形状を模した涼宮ハルヒの思念体に腹部を刺され、出血多量とショックによる意識障害を起こしていました。私は空間内の制御後にあなたをここに移動させて肉体の損傷を修復、意識が戻るのを待っていたという訳です」
ということは、ここはあなたの部屋なんですね、喜緑さん?
「はい。ここはわたしがこの世界において居住するスペースです。長門さんにもスキャンは出来ないので、あなたにとっての安全という面では保障されていると言ってもいいでしょうね」
見たことのある部屋だとは思ったが、喜緑さんは長門のマンションの別の部屋にでもいるのだろう。ひとまず礼を言ってから俺はゆっくりと今までの出来事を思い出していた。
古泉の動揺、謎の閉鎖空間、長門の暴走、ハルヒの生気の無い顔、刺された腹部、失いかけた意識の中での喜緑さんと誰かの声。
駄目だ、混乱している。気を失う前には何かが分かったような気がしていたのに今は恐怖と安堵が繰り返し襲ってくるような感じだ。
「とりあえず落ち着いてください。疑問が生じればお答え出来る範囲で対応致しますので」
喜緑さんはそう言うと湯飲みを差し出した。受け取って一口飲むと喉元を熱いお茶が嚥下していくのが分かる。生きている、という実感がそこにあった。
何度かに分けて茶を飲み干すと、大きく息をつく。落ち着いたとまでは言わないが冷静に状況を考えられるくらいにはなったと思う。そこで俺はそれまで何も言わなかった喜緑さんに訊いてみる事にした。
「まず知りたいのはここはどこだ、ってことです」
「ここというのは所在地で言うのならば私の住むマンションの一室です。長門さんはこのマンションの五階、ここは八階です。時間は現在夜の二十二時十八分、あなたがエンターキーを押してから三時間程経過しています」
放課後に北校の生徒会室に居た時間は既に遅いとは思っていたが意外に時間が経っていない。あれだけの出来事がそんなに短い時間だったとはな、しかし俺が訊きたいのはそういう事ではない。
「つまりここは俺の居た世界では無いということですね?」
「そうです。ここは私の居る世界、つまりはあなたから見れば異世界ということになりますね」
結局元に戻されたっていうことなのか。しかももう俺達の世界の喜緑さんの助けは無いかもしれない、エンターキーを押したが失敗に終わったんだ。
改めて絶望感が押し寄せてくる。俺はこの世界に取り残されてしまったのだ、しかももうハルヒやSOS団の連中に会えるとも思えない。この世界で生きる術さえも俺には無い、完全に手詰まりだ。
「…………ハルヒは?」
涼宮ハルヒは現在安静中です。どのような影響があったのかは目覚めないと分からないですね、閉鎖空間も無くなりましたし世界が改変されていないから大丈夫だとは思いますけど」
 そういうものなのか、と言っても俺もハルヒが改変したのかどうかなど実感出来るものではない。ただあの時のハルヒの目を俺は見てしまったのだ、あんな目を見て大丈夫だなどと思えるものではない。
 だがハルヒに会おうという気にもならないのだ、あいつは一番肝心な事を俺に言わないままなのだから。それに会ったところで同じ事を繰り返すだろう、あいつが変わらない限りは。そしてその度に長門やもしかしたら朝比奈さんのような神人もどきに刺されるなんて精神的に耐えられそうにない。
 何よりも怖いのだ。ハルヒが怖いんじゃない、あいつの話を聞こうともせずに逃げ出しそうな自分が怖いんだ。そうなれば今度こそ世界は終わるだろう、俺のせいだと言われても何も言えないだろうし言う気も無い。
 だからハルヒには会えない。俺が自分の居る世界に戻った時、次にハルヒに会うのはその時だ。その時は俺ももう少しはまともにあいつと話をしなくてはならないのだろう、その為にも帰らなきゃならないんだ。
長門はどうしてますか?」
長門さんは涼宮ハルヒに付き添っています。朝比奈みくるも同様です、彼女達は何も知りませんし私も知らせるつもりはありません」
 朝比奈さんは仕方ないが長門にまで秘密に出来るものなのか? すると喜緑さんは当然のように頷いた。
「主流派と穏健派は観測という目的では一致していますが決して同調している訳ではありません、当然互いに知らないコードで構成してある情報というものが存在しています。今までは使用する必要が無かったのですが今回は特例と言わざるを得ないでしょう」
 そんな暗闘が長門の親玉同士でもあったとは。聞かなくてもいい情報を聞いた気がするが、故に俺は長門のマンションに居ても所在がばれていないという事なのだろう。
「はっきりと言っておきます、現状において彼女達はあなたの敵です。協力関係は期待出来ないと思ってもらっておいた方がいいでしょう」
 改めて言われても衝撃だった、SOS団と敵対しているという事実にだ。
「無論原因はあちらにもあります。ですが世界の平穏というものを考慮するならばイレギュラーはあなたであり、古泉一姫なのです。私はイレギュラー排除の手段をあなた達を元の世界に戻すという方法に見出しただけであって、決して積極的に涼宮さん達と係わろうとは思いません」
「だけどもう俺達に帰る手段は無いんじゃないですか?! それに古泉はどこに居るんだ!」
 限界だった。喜緑さんの言葉からは絶望しか感じない、ハルヒには会えず、SOS団にも戻れずに古泉は行方不明、おまけに戻る手段は無いときた。
 しかし喜緑江美里はあくまでも冷静だった。
「帰還方法が無い訳ではありません。ただし可能性の話でもあります」
「どういうことだ?」
「この世界の主役はあなたではない、という事です。そして涼宮ハルヒでも、長門有希でも、朝比奈みくるでもない。我々は駒に過ぎないのです、先刻の出来事がそれを証明しました」
 そこまで言うと喜緑さんは面白くも無さそうに溜息をついた。俺はといえば喜緑さんの言葉の内容が分からずに呆然としている、何を言い出したんだ、この人は? 俺が主役じゃないのは当然だとしてもいい。だがハルヒ長門、朝比奈さんの名前が出てくるのは何故だ。そして駒とは? 誰が誰の駒になってるというのだ。
 だがそこまでは話すつもりはないのか、喜緑さんは立ち上がると黙って台所へと消えていった。
 それほど経たずに戻って来た手には急須を持っている。置いていた湯飲みにお茶を注ぐと、
「どうぞ」
 差し出された湯飲み。宇宙人とは人を部屋に入れたら茶を飲ませないと気が済まないのか? だが言われるままに茶を飲み干す。
 二杯目も普通に飲んで、三杯目を断わる。そうですか、とあっさりと片付けたのだがまさか分かってやっていたのだろうか。しかし喜緑さんは俺の疑問に答える訳もなく、いきなり話を切り出した。
「古泉一姫は現在所在が不明です。私でも探知出来ておりません、と言えば現状の危機が自覚出来るかと思いますが」
間違いの無い異常事態だ。この地球上において長門の能力、あるいはハルヒの閉鎖空間以外で喜緑さんに探知出来ない事などありえそうにない。
「今回の件の鍵は彼女です。いえ、あなたも鍵だった、と言うのが正解なのでしょう。と言えばお分かりになるかと思います」
喜緑さんの言いたいことは何となくだが理解出来た。俺たちの世界の喜緑さんのメッセージに残された違和感の正体はこれだろう、今思えばの話だが。
「俺はプレイヤーでありながら駒だったと言うことですね」
「いえ、恐らくですがプレイヤーが進行を拒否した為に駒が動かざるを得なかった、といったところなのではないかと。あちらの世界の私もそこまでは予測は出来なかったでしょう」
我々はそこまで人間を理解出来ていませんから、喜緑さんは冷酷なまでに落ち着いた声でそう言った。
「…………恐らくこの世界そのものが『人間』なのかもしれませんけどね」
その呟きの意味は分からなかった、この時の俺には。
「とにかく古泉を見つければいいんですね? それでこの世界から脱出出来る、喜緑さんはそう考えていると」
「その通りです。古泉一姫こそが今回の事件の全てなのですから、世界を出るにしろ終わらせるにしろ彼女の意思が全てなのです」
終わらせるなんてさせるか、俺は生きてここから帰るんだ! 俺は立ち上がり、喜緑さんに礼を言った。もう痛みはどこにも無い、精神的にも古泉を見つけるというモチベーションのせいか高揚しているといっても良かった。
その去り際に俺の背中に呟きが聞える。
「…………有機生命体とは、人間とは面倒なものですね。肉体や言語などという曖昧なものでしか意思の疎通が出来ない故にこのような事態を招くのですから」
それは喜緑さん、多分長門にも、もしかしたら未来から来た朝比奈さんにも理解しづらいものなのかもしれない。俺達は話さないと、相手と向き合わないと何も伝えられないのだから。それは愚かで無駄なことなのかもしれない、少なくとも宇宙にいる情報統合思念体から見ればそうなのだろう。
けれども、だからこそ、なんだ。俺は振り返らずに背後の宇宙人に向けてこう言った。
「それは俺たちの世界の喜緑さんなら絶対に言いませんよ。長門なら反論さえするでしょうね。面と向かって言わないと相手の気持ちなんて分かりゃしないんだ、そうじゃないと」
生きてるって実感が無いじゃないか。メールだとか電話だとか顔を見なくても伝える事は出来る。喜緑さん達ならそんなものさえいらないだろう、だけどそれで本当に相手の事が分かるのか?
「だから俺達は馬鹿みたいに相手の事を考えちまうんですよ。分からないから考える、そしてそれを相手に伝えないと駄目なんだ。あいつらはそれが下手くそなだけなんですよ」
ハルヒも、そして古泉も。まあ俺だってその範疇に入るだろうな、だからこうなったんだ。
「探しに行きますよ。あの馬鹿に一言言わないと俺の気が済まないんでね」
最後まで振り返らずに俺は喜緑さんの部屋を後にした。
部屋のドアが閉まる寸前、喜緑さんが小さく呟いた。
「…………そちらの世界の私が羨ましいですね。あなたがこの世界を去るのが私も惜しくなってきました」
それはこっちの世界の俺にでも言ってくれ。俺なら何とかするだろう、と思う。
俺はマンションを出ると古泉一姫を探す為に走り始めたのだった。