『SS』キョン……、の消失 20

それが現れたのは放課後の事だった。
あたしはいつものように文芸部室へと向かう。佐々木は掃除当番だった。それがどれほど都合いいことなのか、あたしには分かる。今なら分かってしまうんだ。
そしてこいつらにとってそれが都合のいいものかまでは分からなかった。いいや、分かってる。
それは橘の顔を見たら誰だってそう思うに違いない。あいつが涙を瞳に湛えている姿を見るなんて。
キョンさん……………佐々木さんに……………何をしたんですかっ!!」
橘の叫びが室内に響いた。そのままの勢いであたしにぶつかってくる。
「うわっ!!」
あたしは成す術も無く橘を受け止めて倒れないのが精一杯だった。ここまで取り乱す橘を見るのは初めてかもしれない。あたしの胸に顔を埋めたまま橘は呟くように話し始めた。
「佐々木さんの世界が…………凍りつきそうなんです………………」
それはあたしの心臓まで凍りつきそうな衝撃だった。なんで? 佐々木は、あいつは何も変わっていなかったわよ!!
「佐々木さん本人も気付いていないのかもしれません。なにより認めたくないのです、自分自身にある不安に。」
あいつは………それでも自分を律しようというの? 自分の心を凍らせてでも。しかしそれよりも、あたしはまず橘に聞かなければならないことがある。
「なんで? 佐々木は何を恐れているってのよ?」
あたしの言葉に涙を浮かべた橘の瞳が大きく開かれる。初めて小さく笑うと、
キョンさんは佐々木さんの事を本当によく解っているのですね。そうです、佐々木さんは今怖がっています。」
なにを?
キョンさんが……………居なくなる事を…………です…………」
なんですって?! あたしにはそんなつもりは毛頭無い。親の転勤予定も無ければ退学するなんて馬鹿な事もない。それなのにどうして佐々木はそんな後ろ向きな、ううん、あたしを疑うような事を考える訳よ!
それを聞いた橘の顔色が変わる。
「それは……………」
なにか言いたいのだが躊躇しているのが分かる。あたしに言えない事なの? はっきりしなければ何も出来ないのに。
「…………分かりました。実は佐々木さんは昨日キョンさんを見かけたのです。」
昨日………? 瞬間にあの光景がフラッシュバックされる、あのおかしな集団にいるあたしを見たっていうの? 
「それだけで佐々木がそこまで不安になる訳ないじゃない、あたしにだって不本意な時間だったのに。」
「いいえ、キョンさんが何を言っても佐々木さんには分かってしまったのです。そしてそれは私にも。」
なんだ、何が言いたいのよ? そう言うあたし自身も分かっているんだけど、そう言わずにはいられなかったから。
キョンさんがあの人たちと居た時、キョンさんは…………とても楽しそうだったのです。私たちと居る時のように。いえ、佐々木さんから見ればそれよりも楽しそうに、です。」
そんな………あたしにはまったくそんなつもりはない。あたしは佐々木たちと過ごすこの時間がなによりも大事なんだ、そうあたしは決めたんだから!!
「わかっています、私だってキョンさんの事を信じています。もちろん佐々木さんだって!」
それなら、
「でも佐々木さんは漠然とした不安を持ってしまった。それは佐々木さんには無かった執着、と言っていいものとして。」
橘の言葉があたしの胸に突き刺さる。佐々木の言葉として。
「…………今回の件で『組織』はなにもしない、いえ、出来ないというのが本音ですけど。」
どうして? 佐々木のストレス解消があんた達の役目でしょうが。
「今回はあまりにも佐々木さん自身が不安定すぎるのです。ですから状況を観察することしか出来ない、内面世界に入るのも危険なのです。」
肝心のところでそれ?! 役に立たない超能力なんだ……………
『ここは神人もいない静かな空間なのです』
なんだ? [神人]? そんなの知らない! はずのあたしの頭の中で青白い巨人のようなものが大きく唸りを上げて町を壊していく。
そうだ、こういうのがいて退治されて佐々木の心は少しは落ち着いて………
キョンさん?」
橘が不安げにあたしの顔を覗き込む。
「ごめん、なんでもない。ただ、あたしに何が出来るんだろうって。」
再び橘が俯く。
「私にも…………なにも出来ませんから。」
二人とも黙り込んでしまった。自分の無力を思い知る。なにより佐々木の事じゃなく頭に浮かぶ様々な知らない光景があたしの胸を騒がせるんだ、それが悔しい。
ところが沈黙を破ったのは、
「あなたは―――――そのままで――――いい――――」
いつの間に居たんだ九曜?! 橘が固まっちゃったじゃないの!
「最初から―――――――」
いたのか、ならそう言って。ほら橘が泣き顔見られたから顔真っ赤でしょ。
「そいつの泣き顔なんぞ興味はない。」
って藤原さんまで。
「僕はさっき来たばかりだ。だから状況はよくわからんがそんなに悲観するな。」
橘が赤い顔のまま藤原さんを怒鳴りつける。
「あ、あなたに佐々木さんや私の不安の何が分かるのですかっ!それに泣いてません!!」
いや、泣いてないはバレバレだから。そして藤原さんはいつもと違い、なんというかそうね、優しく微笑んで橘の頭を撫でたりなんかした。え、こんな表情できるの?
「まあ僕は心配などしていないからな。」
そう言いながら橘の頭を撫でてる。なんか………こういうのも見たことあるような…………
「なんなんですか! 勝手に人の頭を気安く触らないで下さい!!」
と言いながら手は払いのけない橘が妙に可愛い。
「その証拠に僕はまだここにいる。もしも世界が変わるなら僕はこうしていられないからな。」
あー、そうか、藤原さんがいるから未来は無事で、無事な未来の為に藤原さんがいるわけで。
「上からの指示などはない。しかしお前には言いたいことがある。」
そう言ってあたしを見た藤原さんは、
「佐々木が心配なら離れるな。お前がそう決めたのならな。」
はい、わかってます。藤原さんはハンカチを橘に渡し、
「顔を洗って来い、その顔で佐々木に会う気か?」
「い、言われなくても行きますよ! もう、こんな時だけ………」
そうね、こんな時には藤原さんが年上の先輩だってのがありがたく身に染みるわね。橘が部室を出るときに小さく、
「あ、ありがと………ですから………」
って言ったのが妙にキャラじゃなくてニヤッとしちゃったんだけど。
「――――あなたも―――――笑っていて―――――」
そうよ、佐々木にあんな暗い顔見せれないわ。
「ふん、あの馬鹿、佐々木と鉢合わせとかなるんじゃないか?」
はは、橘ならやりそうだわ。あたし達は顔を見合わせ笑った。九曜の目だっていつもと違って見えたもの。
「―――鍵は――――扉と共に――――」
はいはい、あたしだってあんた達と一緒よ。ずっとね。
「ねえ、さっき橘さんが凄い勢いで走っていったんだけど藤原先輩はご存知じゃないですか。」
そう言って入ってきた佐々木を見てまた笑った。
「おいおい、ずいぶんと楽しそうじゃないか。僕はそんなに道化の素質があったのかい?」
いいや、おもしろいのは橘よ。
「ふむ、それは橘さんが戻ったら是非聞き出さないとね。」
ええ、あいつがどんな言い訳を考えるか楽しみね。
あたし達の日常が戻ってくる。それを守るためにあたしが出来ること…………少なくともこいつの側には居てあげよう。
獲物を待つ狩人の目の佐々木を見ながらあたしはそう思ってたのだった…………